2013年7月11日木曜日

日本をしっかりグリップする

二人の会話は、〇三年九月二十日に中東のドバイで開かれたG7会議の前。G7会議を「大事な選挙キャンペーンの場だ」と割り切る「ローズ」は、「中国と日本に通貨安定策を迫り、結果としてドル高政策の修正を迫る。そうすれば産業界は大喜びさ」と言い放つ。「潜在的な敵国である中国はまだしも、尻尾を振ってくれる日本はどうするの?」。こう尋ねる「ダイス」への、「ローズ」の回答がふるっている。「介入資金は円高・ドル安が進まないと出てこない。つまり、アメリカの長期金利を安定させるためには、適度なドル安状況を作ってやり、日本から継続的な為替介入を引き出さないと、だめだということだ」。

「そんなにうまくいくかしら」と、首を傾げる「ダイス」。選挙参謀の「ローズ」は、「日本をしっかりグリップするのは君の仕事だぞ」と檄を飛ばす。これに対して日本の官僚組織を牛耳っているのは、財務次官出身の「マツオカ日銀副総裁」である。「ダイス」は「マツオカ」に電話をかけ、イラクに対する無償資金を十五億ドル拠出させる。「マツオカ」のモデルは、いうまでもなく当時の武藤敏郎日銀副総裁(現大和総研理事長)である。「マツオカ」は米国に一矢を報いるべく画策するのだが、ストーリーをこれ以上紹介するのは興ざめなのでやめておこう。

先に述べたように実際の円相場はドバイのG7会議をきっかけに一ドル=一一〇円を上回り、輸出企業や外債を買っていた投資家、そして就任直後の谷垣財務相が大慌てする一幕もあった。「より柔軟な為替相場が望ましい。こううたったG7会議の共同声明が、「円高・ドル安を容認した」と受け止められ、円相場の上昇を促したのだ。谷垣財務相としては、「今の立場を離れて読めば面白い」どころでは、なかったのだ。ドバイG7で外れた欧州の思惑ならば、ドルの急落を招いたドバイのG7会議の共同声明は、いかにして生まれたのか。日本の大量介入への批判が背景にあったのだろうか。日本と中国は同じ穴の猪とみられていたのだろうか。そうではなく、ときのブッシュ政権は中国と日本では扱いを峻別していた、とテーラー。回顧録の次の記述が興味深い。

中国に為替相場の柔軟性の向上を求めるため、〇四年九月二日にスノーが訪中した。その前の八月二十六日にホワイトハウスのシチュエーションルーム(情勢分析室)で開かれた対応会議。この部屋は国内外で発生した危機を監視し、状況を分析し、対策を講じるために必要な高度コミュニケーション装置を備えた会議室だが、ブッシュ大統領は休暇中のクロフォードからテレビ中継で参加した。ブッシュは「日本と中国は違う」と念を押した。日本が経験している経済的困難を指摘しつつ、「我々は日本が困難を克服する手助けをしようとしているのだぞ」と強調したのである。「為替相場の柔軟性の向上は中国の問題なのであって、日本ではない。日本には神経を払うように」。これがブッシュの指示だった。小泉・ブッシュの兄弟仁義は生きていた。

とすると、ドバイG7の混乱はどこから。テーラー回顧録によれば、理由は欧州の中央銀行総裁たちへの根回しの不足だった。テーラー、溝口、コッホウェザーの「G3」トリオは、中国の為替相場の柔軟性についてG7会議でどんな言い回しをするか、協議していた。案は次から次へ浮かんでは消えた。G7会議の朝になって、スノーもグリーンスパンも納得する案が固まったが、米国以外の国々への根回しの時間はなく、会議は出たとこ勝負だった。米国は欧州勢から足をすくわれてしまった。欧州中央銀行のウイリアムードイセンペルク総裁が余計な一言を差し挟んだのだ。「柔軟な為替相場(a tlexible exchange rate)」より「為替相場の一層の柔軟性」の方がいいんじゃないの?