2014年12月19日金曜日

大阪の新歌舞伎座

菊田先生は芸術家ですから、私の気持ちをわかっていて下さった。それで、記者会見の席で「何かどうだとは僕も言えないのですが、とにかく駄目になりました。富士子さんごめんなさい」とおっしゃった。私はもう、涙があふれて居たたまれなくなって、お化粧室に駆け込みました。映画会社としては、「契約が切れていても、育てた女優が離れていくのは面白くない。後の示しもつかない」ということだったと思います。それは、私にもわからないわけではありませんでした。参議院法務委員会の議員さんが、「人権侵害で問題にする」とおっしゃって下さったり、日本映画俳優協会の事情聴取も受けました。作家の舟橋聖一先生など、ずいぶん多くの方が「間に立とう」とおっしやって下さいました。

でも、間に立って下さるということは、私かおわびして大映に戻るということです。私は、自分の心に忠実に、苦しくてもフリーの道を選びました。時代は間もなく変わり、日本映画も斜陽になり始めました。つらい思いもしましたが、今では、私を育ててくれた大映に感謝と懐かしさを感じるだけです。何百回も再演重ねて気付くものもある。五社協定の問題で映画界から締め出されかかって、「もう女優をやめよう」と思ったこともありました。そんな時、TBSの石井ふく子プロデューサーが声をかけて下さった。私はテレビのお話も壊れると思ったのですが、ふく子さんは、「テレビはこれからの世界だから、そんなことあるはずない」と言い切って下さった。

それで実現したのが、六三年七月に放送された東芝日曜劇場「明治の女」です。先代の松本幸四郎(白鸚)さんとの共演でした。ふく子さんに聞くと24・5%という大変な視聴率になったそうで、私の家の電話までしばらく鳴りやみませんでした。「皆さんがこんなに励まして下さる。もう一度、女優として頑張ってみよう」と新たな思いがわき上がってきました。その後、たくさんのテレビドラマをやるようになり、フジテレビには「山本富士子アワー」という枠を持たせて頂きました。その中で六四年一月の「にごりえ」は34・2%の視聴率になり、第一回ギャラクシー賞に選ばれました。

舞台に立ったのは六四年四月、大阪の新歌舞伎座でした。松本幸四郎さんとの共演で「明治の女」「千姫御殿」「大石最後の一日」が実現しました。六月には東京宝塚劇場でも「新作国姓爺」と「花と七首」を公演して、五社協定の影も消えていきます。前年の暮れ、新歌舞伎座の松尾国三会長の奥さまのチャリティーパーティーに呼ばれました。会場で「富士子さん、一体どうなっているの。主人もお話を聞きたがっているから、一度いらっしゃい」と声をかけて下さったのです。

ご自宅に伺い、それまでのいきさつをお話ししたら、松尾会長は「わかった」とおっしゃって。「舞台をやりなさい。それも最初から大舞台で。だけど、東京では刺激が強いから、大阪で初舞台を踏んで、それから東京でやりなさい」と道を作って下さった。初舞台から歌舞伎の大看板の方たちとご一緒するのは、大変でした。でも、この壁も乗り越えなくてはいけない。ずいぷんと勉強になりました。映画もテレビ、舞台も、役柄をつかむということでは同じだと思います。ただ舞台は、いざ出てしまうとアップも引きも全部、自分で工夫しなくてはなりません。感性だけでは処理できないものがあり、どうしても場数を踏んで覚えなくてはなりません。

2014年11月19日水曜日

パブリックコメントの有効活用

その後、私は、機会あるごとに、この品確法の立法・運営等に関与している弁護士たちに、床の傾きの基準のことなどを尋ねてみました。しかし、「業者に建て直しなどを強制しないため」という以外には、特筆すべき説明をまだ聞いていません。この説明では、「現状を維持すべきだから欠陥でないことにしよう」と言っているのと同じではないでしょうか。

こんなことでは安心して家に住むこともできません。このほか、建築紛争に関する新しい手続についても、紛争案件を審査する合議体(住宅紛争審査会)に消費者を入れるかどうかという問題がありました。しかし、ひとくちに消費者といっても「その概念が明確でない」といった理由なとがら、審査する側に入ることは認められませんでした。

その他、いろいろな都合で使い勝手の良くない形になってしまった住宅紛争審査会は、ほとんど開店休業状態と聞きます。欠陥住宅を裁くために作られた制度の方に大きな欠陥があったというのでは、シャレにもなりません。

最近でこそ、パブリックコメントの制度が普及し、一般の人々も多少は、インターネットを通じて立法に関する意見をメールで送れます。ただ、市民らの意見はほとんど影響力かおりません。あまりにも無関心な人が多すぎるのも問題です。

本当は政治家の仕事なのに、政治家は政治家でお葬式などに出るのに忙しくて、それどころでないのかもしれません。いずれにしても、あれやこれやの事情で、法律の作成において、消費者団体等の意見は多少は入ることもありますが、大体は業界主導で決まってしまいます。

2014年10月18日土曜日

「ITによる人間疎外」

情報ビジネスの裾野を広げる、重厚長大型を含めた旧来の産業の再生を進める、外出が思うにまかせなくなった高齢者の日常生活の必要を満たす。

これらのすべてを目指して、「ヤング」より中高年、新興・ハイテク企業より既存の伝統産業にITの浸透を図ることが、情報化戦略の重要な部分を占めていなければならない。何より、モノ造り産業の国際競争力をITによって回復・強化することは、日本の雇用と活力にとって死活の意味を持つ。

世界的規模で情報化が進んでいくのと並行して、世界的規模で「情報格差」が広がっている。その落差は、熟練がものをいった製造業が産業界をリードしていた時期と比べて、情報化時代にはより深刻な、乗り越え難いものになっていく恐れもある。

「ITによる人間疎外」を生まないための「中高年向けパソコン・インターネット講座」などにも、国と地方自治体が力を入れるべきだろう。情報化教育は、幼稚園にまでさかのぼって考えられねばなるまい。自閉的になりがちなコンピューターゲームにのみ閉じこもることのないように、またゲーム機の家庭への浸透以前から進んでいる活字離れ、読解力不足に対処することも、ITを人間形成に関わるものとして活用するうえで、不可欠のことだろう。

これに関連することとしていえば、日本語の最大の長所である漢字・仮名書き文を、高度化したITで使いやすいものにしていく必要もある。IT革命は、書籍やパソコンなどの情報機器の商取引ではすでに身近なものとなっている。間もなく金融、証券取引へ、さらに米国の先例からすれば、税務申告、そして選挙の投票などにも及んでいくだろう。

重要なのはこうした「表」の技術を、側面、裏面で支えるさまざまなシステムである。多くの部分でとりあえず米国に追随せざるを得ないとしても、情報化の負の要素に対する目配りも含めて、これこそ米国にならって総合戦略を立てねばならない。

コンピュータ誤作動の「二〇〇〇年問題」のように、米国流のデータ仕様にならったことで世界中が巨額の無駄遣いをしたという悪例もある。こうした事態への対応も含めて、総合戦略は不可欠である。

2014年9月18日木曜日

問題の根源はユタの存在

キャンペーンは一九八〇年正月から始めた。「うちな女男」というタイトルで、連載開始直後から「トートーメー」に絞って連日、記事を掲載した。最初に沖縄が揺れるほど、と書いたが、私は本当に島が揺れていると感じた。記事を載せたその日の朝から、社の電話が鳴り止まなかった。「この日を待っていました」「新聞でうんと取り上げてください」。ほとんどが女性からで、電話の向こうで泣いている人も多かった。電話、手紙が新聞社に殺到した。男性からもあった。かつて経験したことがないような、一大反響が沸き起こった。ガスが目いっぱい充満した部屋にマッチの火がつき、大爆発を起こしたようなそんな状態がかなり長く続いた。

電話や手紙でこんな声が新聞社に連日届いた。「私には一人娘(小学生)がいます。生まれてからずっといっしょに住んでおり、この子も『お母さん、わたし大きくなったら結婚して男の子とお母さんといるよ』つていうんですよネ。どうして実の娘がいるのに遠い親戚から養子をもらって跡を継がさねばならないんでしょうか。一生懸命財産をつくっても、とんでもない人に財産をあげなければならないんでしょうか」(五十代の主婦、浦添市)「私たちには五人の娘があります。もちろん男の子が欲しかったのですが、運悪く全部娘だけです。でも私たちは五人の娘の中から一人はトートーメーを持ってもらおうと思っておりました。

ところが門中(始祖を共通にする父系の血縁集団)と称する親戚から待ったがかかった。トートーメーは女が持つと崇りがあるというのです。それからというものは毎日、門中ぜんぶからそろって説教です。揚句の果てには『私のところにも娘がいる(いかず後家)、二号にしてよいから、男の子を娘に産ませろ』という親戚まで出る始末です」(T・I、具志川市)予想をはるかに超える数であり、深刻さであった。禁忌を守らないとよくないことが起こる、崇りがある、と巷間、伝播の役を果たしていたのが、沖縄で「ユタ」といわれるシャーマン、霊的な能力を持つ人たちであることも問題を表面化しにくくしていた。

易者とも違って、特殊な霊力を持つといわれるユタがそういうのだから、と多くの人がトートーメーにまつわる慣習を守ってきたのである。問題の根源はユタの存在、という声も多かった。ユタは表には出ない存在である。依頼者の内面の相談に乗って生計を立ててはいるが、看板などどこにもない。だから分からない人にはまったく分からない。もちろんユタを信じず、関わりを持たずに生きている人も大勢いる。とはいえ、ユタが人の生死、生き方に深く関わっており、沖縄の裏の文化の重要な役割を担っていることは厳然たる事実だ。葬式などは沖縄でもお坊さんがことを進めてくれるが、葬式も含め、お坊さんと同じぐらいかそれ以上に大きな影響力を持っているのがユタである。

沖縄では、警察など時の権力がユタを弾圧した歴史があり、それでも現在、三千人とも四千人ともいわれるユタがいる。それはそれだけの理由があるからである。ユタのところに行き(沖縄ではユタを買うという)、ユタの判示を聞き、それを受け入れることによって心の安らぎを得て生きている人もまた非常に多い。沖縄ではユタは身近なカウンセラーの役目も果たしている。私はユタを直接、訪ねて取材もした。どういう場所でどんなことをしているのか、様子を見に行ったのである。目の前の女性はごく普通の人だった。新聞記者です、と名乗ってから取材を始めたが、しばらくすると、私の顔つきや言葉遣いがどうも変だと思ったのであろう、「あんたはどこの人ね」と聞いてきた。

2014年8月23日土曜日

驚くべき日本

『ロンドンーエコノミスト』誌だが、この雑誌は私にとって異国の経済誌であるにとどまらない、或る特別な思いがあった。というのは、六〇年代に同誌の日本経済報告『驚くべき日本』を読んで、そのなかに《日本人は美に優れた感覚を持っているのに醜さに対しては全然無感覚だが、イギリス人はそれとまったく正反対だと言われているyということばに出会って、つよく印象づけられたからである。経済論がそのまま文化論になっているのに感心したのである。

そういう思いもあったので私は、覚悟を決めて、今回の問いかけに対して、手短に次のように答えた。すなわち、これは、日本の《バブル経済》の在り様からいって、前々から危惧されていたことの一端ではあったが、たいへん残念なのは、あの八〇年代後半以降の異常な好景気のときに、浮かれてばかりいないで、なぜ、当然予想された来たるべき景気の低迷や不況に対応するようないろいろな手が、経営者たちの責任で打たれていなかったか、ということである。

そのときどきの気分に容易に動かされやすく、ムードに弱いわれわれ日本人は、ときにはあまりにも楽観主義的になるかと思うと、ときにはあまりにも悲観主義的になりがちである。そして、大衆的なテレビや週刊誌ばかりでなく、冷静であるべき新聞も、今回の危機には過剰に反応しすぎている。したがって、このような危機に直面してとるべき態度は、いたずらに浮き足立ってペシミスティックになることを避け、なによりも頭を冷やしてリアリスティックに現実を直視し、現実に対処することではなかろうかと。

さて、私が『ロンドンーエコノミスト』誌のインタヅユーにそのように答えたことには、次のような背景があった。すなわち、最近たまたま、現在の日本および日本人の国際的に置かれた状況について、専門のまったくちがう一一人の大から、期せずして、日頃私か思っていたことに通じるような意見を聞いて、考えさせられていたのだった。そのひとりは、社会学者の上野千鶴子さんである。「共同通信」のために一九九八年正月用の対談をした折、一九九六年度に、一年間の招聘教授としてアメリカとメキシコに滞在していた上野さんは、外から見た日本について、次のように言っていた。

日本の優秀とされている若手研究者たちの多くは、欧米とくにアメリカの若い研究者だちと比べて、Eメールなどを駆使して自分の意見を世界に発信する気迫があまりにも乏しい。また、みんな永い間英語を学んできているのに、自分の意見を世界に発信するだけの語学力も身につけていない。なかには、れっきとした研究者なのにEメールをローマ字で送ってくるものもいる。彼らは、閉じられた日本のなかでぬくぬくと生きていて、日本がアジアの一角にある島国としてどれだけ世界の知的活動の中心から隔絶しているかを、まるで自覚していない。このままでは日本は学問的・文化的に真に国際化することなど、到底難しいのではないかと。

2014年7月26日土曜日

公的資金はさらに追加投入されるか

文豪レフートルストイは、『アンナーカレーニナ』の冒頭で、「幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭は、その不幸な様をそれぞれ異にしている」と見事に記した。同様なことが、経済現象についても言えるのではないだろうか。すなわち、幸福な国家経済は、お互いにうんざりするほど類似しているが、不幸な国家経済は、景気下降の心理と政治が、国によって個々に違うため、それぞれ異なる状況下で金融危機に苦しみ、景気後退に耐えているのである。

したがって、アメリカを中心にヨーロッパや多くの国に波及している、現在の経済危機の行方を、誰もが予測できると考えていると、とんだ思い違いを起こすのだ。そこで、この十五ヵ月間にわたる経済ドラマが、今や欧米と日本の実体経済にも、景気後退をもたらしていることについて、どのように考えたらいいのだろうか。私は、次の六つのことが言えると思う。

一つ目に、今回の欧米の景気後退は、二〇〇一年から二〇〇二年までの時よりも深刻になるということである。なぜなら、負債額を削減し、借入金を減らすというデレバレッジ(借入資本の返却)のプロセスが、最初は消費者、次に企業の順で進んでいったからだ。景気後退がどれだけ深刻なものになるかは、借り手や貸し手が、どんなに恐怖感を抱いているかによって左右される。

しかし、アメリカの失業率は、現在、六・一%に増加しているとはいえ、よく比較の対象とされる一九八〇~一九八二年の一〇%、ましてや一九三〇年代に経験した、三〇超%までには程遠い。二つ目に、今回の危機に対する各国政府の対応を、一九三〇年代と一九九〇年代の日本およびスウェーデンが直面した金融危機の場合で比較することができる。日本では、一九九〇年以降に、先進工業国が一九二九年来経験したことのない、株式相場と不動産価格の最大の暴落が発生し、「失われた十年」が生じた。その景気後退は決して深刻ではなかったが、長引いたのである。

スウェーデンでは、一九九〇年代初めにいくつかの銀行が倒産後に国有化され、きわめて深刻な景気後退に見舞われたが、その後急速に回復した。両国間に違いが生じたのは、政策の対応速度に差があったからだ。二〇〇七年八月に金融危機が訪れてから、欧米双方の反応は、日本よりもスウェーデンに似ている。日本は、公的資金が銀行に直接投入されるまでに八年もかかったが、イギリスやアメリカなどが、それまでに要したのは十五ヵ月である。

2014年7月12日土曜日

「革命的」の核心

このようにみてくると、ケインズ以前一九三〇年代までの社会は、これまで何度か描写した状況と、ほぽ等しかったとみていい。すなわちそこでは、まず、人びとはおおむね貧しく、日々の生活に追われて、心中に不平不満を抱く余裕すらなかったし、しかも、たまたま心中に不平不満を抱いても、ひとたびそれを表にあらわせば、たちまち自分自身の不利益としてはねかえってくる危険(たとえば、くびになり路頭に迷う危険)があった。つまり「ヒラの人」たちは、失業と飢えの恐怖から、少なくともほどほどには働かざるをえなかった。

しかし、一九三〇年代が到来し、失業率が二十~三十パーセントにも達するにいたれば、話はまったく別だろう。ほどほど真面目には働こうにも、働く場所そのものがない人びとにとって、もはや失うべきものは何もない。日々の生活に追われる機会さえ奪われた彼らは、飢えの恐怖にさらされた不平不満を心おきなく表現するほかに、そもそもなすべきことがないだろう。かくて資本主義は、空前の危機に直面する。この危機を救おうとしたのが、ケインズにほかならない。彼は、もし金融緩和を維持するとともに、積極的な財政政策を行なうならば、この危機は避けられると考えた。この考え方は、たしかに「ケインズ革命」の名に値したのである。

経済学に親しみの薄い読者のために、ケインズ経済学のエッセンスを復習しよう。まず財政をみよう。積極的な財政政策とは、財政支出を拡大するとともに、減税を行なうことである。もともと不況時には所得は伸び悩むから、がりに税制をそのままにしておくと、税収は伸び悩まざるをえない。もしケインズ以前の経済学者が考えていたように、財政はつねに均衡しなければならないとすると、不況時の政府は、この自然減収を埋め合わせるに足る増税を行なうか、さもなければ自然減収に見合うだけ財政支出をカットするか、どちらかの選択に迫られる。ところが、増税は民間需要を抑えるし、財政支出のカットは政府需要を抑える。したがって、政府が均衡財政のルールにしばられるかぎり、不況は改善されないばかりか、むしろよりいっそう深刻化するおそれがある。

そこでケインズは、むしろ不況時にこそ財政支出を拡大し、かつ減税を行なうことが必要だと考えた。がりに政府が何もしなくとも、不況時には財政は赤字になりがちだから、政府がケインズの指示どおりに動けば、財政赤字はさらに大きいだろう。だが、それによって景気が回復に向かい、失業が減って、農民が娘を売らなくともすむプラスとくらべれば、赤字財政のマイナスは取るに足りないほどわずかである。このような思想転換は、たしかに「革命」的であった。

2014年6月27日金曜日

亡き妻への手紙

慶子夫人の発病から、江藤さん自身の第一回目の退院までのことをつぶさに書いたのが「妻と私」である。世間では亡き妻への鎮魂記などと言っているが、鎮魂記でもあろうし、亡き妻への手紙でもあろう。実は私は、「新潮」から、その「妻と私」の書評を頼まれていて、江藤さんの本だもの、何か書いてみます、と同誌の宮辺さんに答えたものの、こういった本についてはどういうことを書けばいいのか、江藤さんの悲しみを想像して、胸つぶれる思いになるばかりであった。こういう本には解説はいらない、評もいらない、書評と言って、何を評するというのだ。ただ、江藤さんの悲しみを、自分流に想像して、ひそかに、つらい思いをしていればいいのだ。思いがこんなふうになると、何も書けないが、これは、私には、なんともつらい、悲しい本である。

どのへんがつらいか、というようなものではない。全部、各行、つらい。もちろん、あと三ヵ月から五ヵ月ぐらいの末期癌だと宣告されたときの江藤さん。それを告知しないことにきめて、家庭で、病室で、対い合っているときの江藤さんの心の襟。仕事で夫人の側を離れる間も時ばたつ。夫人と一緒にいる時間は、刻々に減る。絶えることなく、時間が過ぎて行く。悲しくない時間は一刻もなかったであろう。その刻々の江藤さんの心の襟を想像すると、想像が及ばなくても、胸がつぶれる。

慶子夫人もまた、亡くなるまでに、多くのことを感じ、思ったはずである。その心の襟は慶子夫人でなければわからないが、夫人の病状がかなり悪化して痛み止めのモルヒネの投与を受けるようになった十月半ばの午後、「もうなにもかも、みんな終わってしまった」と、誰に言うともなく夫人が言い、それを返す言葉もなく聞きながら、夫人の両手を握り締めている江藤さんの思い。江藤夫妻が、こんな寂しい時間を持ったのだと思うと、私はたまらないよ。

前記のように江藤さんは、夫人の葬儀の当日に、急性前立腺炎と感染症で入院して危篤になるが、死線を越えて、一度退院する。だが今度は脳梗塞で倒れ、またも入院するのである。江藤さんの脳梗塞は、軽症だと伝えられたが、夫人を失った後、続いて襲って来た病気は、江藤さんから生きる力を奪ってしまったであろう。脳梗塞が、それでなくても、みんな終わってしまった。と思いがちな江藤さんの気持ちを最後に決めたのでしょうね。もうすぐ私も、みんな終わるでしょうが、江藤さん、長い間、いろいろとありがとうございました。

2014年6月13日金曜日

四つの基本型

士族グループでは大学以上と大学未満との差が一五パーセントと増えている。これは確かに士族グループでは、もとの教育水準の影響が維持されていることを示している。それは華族と違って、士族グループでは高等教育を受けることが、高い政治的地位を得るのに必要だったことを示している。これに対して平民グループでは大学教育を受けた者と、受けない者との差が、実に三三パーセントにもおよんでいる。この関係は、華族や士族と異って平民の間では、高等教育を受けることが、高い政治的地位を得るために決定的に重要であったことを意味している。

それは近代化の過程にあって、高等教育機関が封建社会における平民、およびその子孫の社会的上昇のための、重要な通路であったことを示している。そこで方法論的に言えば、この多変量解析において封建的地位という統制変数は、教育水準と政治的地位の関係という、二変量解析の結果が、消滅したり強調される条件を特定していることになる。そこでこのような精密モデルの型は「特定型specification」と呼ばれる。

このようにラザースフェルドは三つの変数の組合せによって行われる、多変量解析の基本型を提出した。その基本型はここで紹介した二つの型を含めて、四つの型に要約されている。その第一の型は統制変数を導入しても、もとの二変量解析の相関関係がそのまま持続する型で、反復型(replication)と呼ばれる。この場合、もとの二変量解析は、統制変数を導入しても変化がなかったので、統制変数の従属変数に対する影響がなかったことが証明されたことになる。つまりもとの二変量解析は、この統制変数によるテストに合格したことになる。

第二、第三の型はJ・マッカーシーの研究に示されたように、統制変数の導入によって、もとの二変量解析の相関関係が、消滅した場合である。この場合マッカーシー研究の例を見ると、その統制変数は教育水準であった。そしてこの教育という変数は、もとの二変量解析における、独立変数の政治的寛容度に対して、時間的に先行していた。それは普通の場合、人間は人生の初期に学校教育を受けてから、政治的寛容に関する態度を形成すると、考えられるためである。この関係を示したのが図である。

この図は教育水準、政治的寛容度、マッカーシーに対する態度という、三者の関係を示す図を、変数間の時間的順序を強調して書き直したものである。この図にあるように教育水準という変数は、政治的寛容度という変数に時問的に先行するので、先行変数(ante-cedent variable)と呼ばれる。そしてこの場合、独立変数と従属変数との関係が、偽の関係であるか否かをテストするテスト要因が、もとの二変数間の関係を「説明する」ので、この解析のモデルは説明型と名づけられている。

2014年5月23日金曜日

政策判断の根拠

公定歩合は九〇年八月に六・〇%に引き上げられて後、九一年七月まで十ヵ月にわたり高水準にとどめられた。その結果、短期市場金利は八%を超え、マネーサプライの伸びも九一年後半には二%台まで落ち込むことになった。このように金融政策による引締め効果は、極めて有効に働いたのであるが、その後バブル崩壊の影響が厳しくなってくると、少なくとも第四次引上げは必要なかったのではないか、あるいは、ほぼ一年間にわたる六%という高い水準の維持は長すぎたのではないか、との意見も出てくる。

景気は九一年四月を山にして下降に向かい、生産や設備投資の伸びもマイナスに転じていた。東京圏の地価はすでに八九年頃からほぼ沈静化していたが、大阪圏、名古屋圏の地価も九一年には僅かながら下落の兆しを見せる。株価は八九年十二月末をピークとして、九〇年三月には三万円を割り込むなど、ほぼ一貫して下落を続けた。

しかしながら、次のような事情にも留意しなければならなかった。人手不足などを理由に物価は九〇年夏から騰勢を強めており、また九一年夏には湾岸危機を背景とする原油価格上昇があった。八九年半ばから九〇年にかけて為替レートはかなり円安傾向で推移し、金融緩和が更なる円安をもたらすと、輸入価格の上昇からインフレにつながる恐れがあった。

政策判断の根拠として、いろいろと説明の材料を挙げることは可能であろう。しかし私の実感としては何といっても当時の社会的な流れが決定的な力を持っていたように思う。当時は、地価や株価の上昇がバブルであるとの認識が広まっており、金融引締めの維持はバブル潰しとして積極的に評価されていた。バブルが資産所得の格差を拡大させ、経済の歪みを増幅させたとの認識が広がっていた。

あるいはこのことを、時流に抗してまで迅速な政策転換をはかることのできない官僚主導型政策決定の限界と認識すべきなのかもしれない。しかし、今日ぶり返って、プラザ合意、円高不況対策、地価騰貴の抑制など、この激動期の政策決定がすべて官僚のイニシアティブで行われていたというのは、少なくとも私の実感とは大きく離れている。

2014年5月3日土曜日

一番乗りはフランス大統領

アメリカの軍部は、民主党の政治家が楽勝と誤った判断をくだしたベトナム戦争に巻き込まれ、威信を失った。湾岸戦争はあまりにも短く、かつハイテク化されていたので、アメリカ軍の奮戦ぶりを世界に示すことができなかった。そのため彼らはまだ威信を回復できず、あいかわらず米軍部には民主党にたいする怨念がくすぶっている。「私はベトナムの幽霊をさがしたわけではない。だが、ベトナムの幽霊は存在し、ベトナムの幽霊は私を見つけた。市民の健康(精神状態)を左右する、ベトナム戦争で不当に傷つけられた二つの体制、アメリカ軍部と民主党に及ぼした傷のなかに、もっともはっきりと残っていた」。

ハルバースタムは、結びをこのような文で終えている。米軍部の怨念というのが気懸かりである。怨念をはらしてくれるのは、民主党の反対党である共和党であり、それがブッシュ政権であるとすると、どういう展開になるか考えざるを得ない。アメリカ文学をまちがいなく代表する『白鯨』(一八五一年)をのこしたハーマンーメルヴィルは、ものごころつく頃までWTCビルがあった近くで過ごした。彼の心象風景のなかには、かつてのニューヨークがくりかえし出てくる。当時とはくらべようもなく激変したが、驚愕するしかないほど今を的確に千言するくだりを引用しておかねばならない。それがあまりにも不気味だからである。

指導者はそれと気づかぬ時に、俗衆が却って指導していることが多いのだ。しかし、数度も商船水夫として海の匂いを吸ったあげくに、いま私か捕鯨船に乗ろうというのは何故か。このことは、眼に見えぬ「運命」の警吏、つねに私を監視し、ひそかに私をいじめ、説明しがたい力で私を操っている彼が、一番よく知っていることだ。たしかに、今度私か捕鯨の航海にゆくということは、遥かな昔に書き込まれた天命の番組の一部をなしているのであろう。大きな演奏の間の、短い中間曲あるいは独奏として挿大されたものにちがいない。この前後の番組はこんなふうにでもなっているのではないかと私は思う。

同時多発テロ発生から、ちょうど一週間がたっていた。九月一八日の午後六時三〇分、ホワイトハウスのオーバルオフィス(大統領執務室)に招かれた記者団の前には、ブッシュ大統領とフランスのシラク大統領がソファーに隣り合って座っていた。「みなさん、このオーバルオフィスに、私の親友であり、アメリカの親友でもあるシラク大統領をお迎えすることができ、たいへん光栄に思います。一週間前のあの恐怖の日以来、私かお受けした世界首脳の最初の公式訪問です」。ブッシュ大統領は記者団に向かって、こう切りだした。

2014年4月17日木曜日

貨幣余剰と労働力余剰

郷鎮企業は、中国全体の過剰労働力の解消にも大きく貢献しうる資格をもっている。実際のところ、中国の総労働力のうち都市の国営企業を中核とする非農業労働力は、一九八三年の一億一五一五万人から一九九二年の一億四五一〇万人へとこの間二九九五万人増加したが、既述したごとく同期間の郷鎮企業労働力の増加数は七三四七万人であり、それを大きく上まわった。

もっとも、郷鎮企業は全国一様に発展しているわけではない。大都市圏、ならびに大都市圏を後背地としてもち、かつ豊かな農業地帯を擁するという地理的条件をもったいくつかの沿海諸省に集中している。その典型例が上海経済圏に近い江蘇省南部である。ここは一九七〇年代後半から農村工業化が急速に進み、それにともなって余剰労働力が激しく流動化した地域であり、「蘇南モデル」として全国農村の熱いまなざしを受けている地域でもある。

郷鎮企業にこのような拡大をもたらしたのは、農村とのあいだに横たわる労働生産性の格差である。郷鎮企業の労働力I単位当たり生産額、すなわち労働生産性は一九九二年において一万七四六六元であり、同年の農業の二六〇七元を六・七倍も上まわった。農民収入に占める非農業収入比率は一九七八年の七・〇%から一九九二年には三〇・八%へと上昇した。農民が農業への投資を縮小し、郷鎮企業を中核とした工業部門へと、余剰の資金と労働力を激しい勢いで投下しつづけたことの帰結である。

郷鎮企業の技術は伝統的なものが多く、高い労働集約性がその特徴である。そうした特徴のゆえに、郷鎮企業は農業部門からの強い労働力吸収を可能にしている。そしてまた、このことが土地に対する強い人口圧力を緩和して農業生産性を上昇させ、貨幣余剰と労働力余剰をさらに郷鎮企業に向けて吐きだす条件を醸成するという、「累積的経緯」を生むであろうことが期待できる。

もちろん郷鎮企業の生産物は、農村の最終需要と直接的な結びつきをもっている。こうして郷鎮企業の生成は、自由な要素市場(資本・労働市場)と商品市場(財市場)を介在して、農業部門と工業部門とのあいだに有機的な連関(リンケージ)をつくりだす新単位として生まれてきた。