2014年5月23日金曜日

政策判断の根拠

公定歩合は九〇年八月に六・〇%に引き上げられて後、九一年七月まで十ヵ月にわたり高水準にとどめられた。その結果、短期市場金利は八%を超え、マネーサプライの伸びも九一年後半には二%台まで落ち込むことになった。このように金融政策による引締め効果は、極めて有効に働いたのであるが、その後バブル崩壊の影響が厳しくなってくると、少なくとも第四次引上げは必要なかったのではないか、あるいは、ほぼ一年間にわたる六%という高い水準の維持は長すぎたのではないか、との意見も出てくる。

景気は九一年四月を山にして下降に向かい、生産や設備投資の伸びもマイナスに転じていた。東京圏の地価はすでに八九年頃からほぼ沈静化していたが、大阪圏、名古屋圏の地価も九一年には僅かながら下落の兆しを見せる。株価は八九年十二月末をピークとして、九〇年三月には三万円を割り込むなど、ほぼ一貫して下落を続けた。

しかしながら、次のような事情にも留意しなければならなかった。人手不足などを理由に物価は九〇年夏から騰勢を強めており、また九一年夏には湾岸危機を背景とする原油価格上昇があった。八九年半ばから九〇年にかけて為替レートはかなり円安傾向で推移し、金融緩和が更なる円安をもたらすと、輸入価格の上昇からインフレにつながる恐れがあった。

政策判断の根拠として、いろいろと説明の材料を挙げることは可能であろう。しかし私の実感としては何といっても当時の社会的な流れが決定的な力を持っていたように思う。当時は、地価や株価の上昇がバブルであるとの認識が広まっており、金融引締めの維持はバブル潰しとして積極的に評価されていた。バブルが資産所得の格差を拡大させ、経済の歪みを増幅させたとの認識が広がっていた。

あるいはこのことを、時流に抗してまで迅速な政策転換をはかることのできない官僚主導型政策決定の限界と認識すべきなのかもしれない。しかし、今日ぶり返って、プラザ合意、円高不況対策、地価騰貴の抑制など、この激動期の政策決定がすべて官僚のイニシアティブで行われていたというのは、少なくとも私の実感とは大きく離れている。