実際、若者たちの消費生活には、ゆるやかな異変が生じつつある。顕示的な消費生活のなかで「自分探し」をする若者は、「漠然とした不安」を抱えて生きているのであって、どんなに気に入った商品によって自分を演出しても、「別の商品のほうがよかったかもしれない」という「偶有性の不安」から逃れることはできない。消費社会のなかで「本当の自分」を探し求める若者は、しかしやがて、三つの行動パタンに分岐していくであろう。
第一のパタンは、より多くの商品を買い揃えることによって、消費財による自己表現を増大させる方向である。しかしこの方法は、かえって徒労に終わるのみで、ますます「本当の自分がみつからない」という不安を抱えてしまう。第二のパタンは、「本当の自分探し」をするよりも、高級ブランド商品を買うことで、一時の流行によってすたることのない価値を身につける方向である。ところが三浦展の分析では、最近では下流社会の人々のほうが、ブランドにこだわっているという。これに対して第三のパタンは、「自己開発志向」の消費である。
たとえば、エステや整形、フィットネスやヨーガによって、外見を改造する。海外ボランティア・ツアーやインターネット・コミュニケーションのオフ会などで、他者と交流する。あるいは、ほとんど消費せずに、ブログによる情報発信によって自己の内面世界を深めていく。こうした自己開発志向の生活は、まさに「創造階級」のライフスタイルといえるだろう。創造階級は、お金よりも自由な時間を大切にする。お金があれば、「ブランド男/ブランド女」になることができるだろう。しかし膨大な時間がなければ、「創造階級」のライフスタイルを身につけることができない。
2016年4月19日火曜日
2016年3月18日金曜日
司法制度改革の柱
日本の法や裁判をめぐる構造的な問題にメスを入れるべく、一九九九年に司法制度改革審議会(以下、改革審)が設置され、そこで国民の司法参加についても検討することになりました。
「国民の司法参加」とは、アメリカの法廷ドラマや映画などで見かけるように、訴訟手続に十二名の一般市民(陪審員)が裁判の判断権者として参加する「陪審制」が典型的ですが、いずれにしても、日本でもそれに類するようなものが想定されています。
そんな「国民の司法参加」が、今まで述べてきたような、日本の裁判手続におけるいろいろな問題に対する解決になるのか、疑問に思う方も多いのではないかと思います。
周知のとおり、いわゆる規制緩和政策を推進する際には、事後の救済措置としての司法制度を整備することが必要だと説明されており、改革審が設置されたのには、そのような背景もありました。そして、今まで論じてきた問題を解決することこそが、司法制度改革の眼目として位置付けられるべきでした。
この観点からしますと、司法制度改革のメインは、民事裁判の領域であるということになるはずです。ところが、結論からいえば、「国民の司法参加」について改革審が打ち出した最終意見は、さしあたり刑事訴訟(しかも重大事件)への参加であって、規制緩和政策とか、民事裁判の改革などといった問題とはほとんど無関係です。
「国民の司法参加」とは、アメリカの法廷ドラマや映画などで見かけるように、訴訟手続に十二名の一般市民(陪審員)が裁判の判断権者として参加する「陪審制」が典型的ですが、いずれにしても、日本でもそれに類するようなものが想定されています。
そんな「国民の司法参加」が、今まで述べてきたような、日本の裁判手続におけるいろいろな問題に対する解決になるのか、疑問に思う方も多いのではないかと思います。
周知のとおり、いわゆる規制緩和政策を推進する際には、事後の救済措置としての司法制度を整備することが必要だと説明されており、改革審が設置されたのには、そのような背景もありました。そして、今まで論じてきた問題を解決することこそが、司法制度改革の眼目として位置付けられるべきでした。
この観点からしますと、司法制度改革のメインは、民事裁判の領域であるということになるはずです。ところが、結論からいえば、「国民の司法参加」について改革審が打ち出した最終意見は、さしあたり刑事訴訟(しかも重大事件)への参加であって、規制緩和政策とか、民事裁判の改革などといった問題とはほとんど無関係です。
2016年2月18日木曜日
診療報酬点数表の配分
いずれにせよ、民主制国家にとって、どのような制皮を選ぶのか、戦後は国民の選択によるほかはありません。そのためにも、私たち一人一人がわが国の社会保障の仕組みとその抱える謬題について理解することが重要なのです。
わが国の医療体制は、すべての人に医療保険が強制適用されるようになってから(一九六一年)、診療所や病院が急速に整備されてきました。医療を考えるうえで最も重要なことは、良質な医療を確保することです。そのために、いかに効率的な体制で、あるいは費用でそれを支えることができるかということを問題にしなければなりません。順序が逆になってはいけません。というのも医療は他のサービスと異なり、人の生命にかかわることだからです。
世界には、いまだ医療も薬も国民に行き渡らず、治る病気にもかかわらず十分な治療を受けられず、多数の人が生命を落としている国が多くあります。経済成長が鈍化するなか、先進国の医療費は経済変動とかかわりなく増加する傾向にあります。高齢化に伴い、老人医療費が急増し、GDPに占める国民医療費の割合は、上昇しています。間違いなく、医療は効率化を迫られています。が、それと同時に「医療の質」の向上も求められているのです。
わが国では医療供給の仕組みを、診療報酬点数表の配分によって政策誘導する方法がとられてきました。診療報酬の規模を左右するのは、医療保険の加入者数や保険料水準であり、医療保険をどうするかという議論と医療の仕組みがどうあるべきかが渾然と議論される傾向がありました。もちろん、医療そのものと医療保険は切り離すことはできません。
本来は、医療の仕組み、すなわちどのような医療の提供制度と医療の質を国民は求めるのか、それを財政的に支える医療保険制度はいかにあるべきなのか、そして両者を結びつける診療報酬の体系はどのようなものが望ましいのか、を議論していくべきなのです。わが国り医療はどう提供されているのでしょうか。
わが国の医療体制は、すべての人に医療保険が強制適用されるようになってから(一九六一年)、診療所や病院が急速に整備されてきました。医療を考えるうえで最も重要なことは、良質な医療を確保することです。そのために、いかに効率的な体制で、あるいは費用でそれを支えることができるかということを問題にしなければなりません。順序が逆になってはいけません。というのも医療は他のサービスと異なり、人の生命にかかわることだからです。
世界には、いまだ医療も薬も国民に行き渡らず、治る病気にもかかわらず十分な治療を受けられず、多数の人が生命を落としている国が多くあります。経済成長が鈍化するなか、先進国の医療費は経済変動とかかわりなく増加する傾向にあります。高齢化に伴い、老人医療費が急増し、GDPに占める国民医療費の割合は、上昇しています。間違いなく、医療は効率化を迫られています。が、それと同時に「医療の質」の向上も求められているのです。
わが国では医療供給の仕組みを、診療報酬点数表の配分によって政策誘導する方法がとられてきました。診療報酬の規模を左右するのは、医療保険の加入者数や保険料水準であり、医療保険をどうするかという議論と医療の仕組みがどうあるべきかが渾然と議論される傾向がありました。もちろん、医療そのものと医療保険は切り離すことはできません。
本来は、医療の仕組み、すなわちどのような医療の提供制度と医療の質を国民は求めるのか、それを財政的に支える医療保険制度はいかにあるべきなのか、そして両者を結びつける診療報酬の体系はどのようなものが望ましいのか、を議論していくべきなのです。わが国り医療はどう提供されているのでしょうか。
2016年1月21日木曜日
フェミニズムは政治運動である
ここでは「私たちは女性のためだけの社会政治経済プログラムを提案することはできない。私たちに必要なのは女性の視点からの社会のあり方の方向なのだ」という。そして「第三世界の女性の主要な問題が成長と開発のプロセスに不十分にしか参加していないことで、女性が参加して資源や土地や雇用や所得などをもっと得さえすれば女性の経済的社会的地位が劇的に変化する、と考えられて来たが、私たちの経験からこの考え方に挑戦しなければならない」と、政府など破壊的な開発を進めてきた側からの参加への誘いをまず疑ってかかる。「女性のエンパワーメントこそ最重要である」とする。
その力をつけるにあたって、フェミニズムを第三世界の女性としてどうとらえるか。「フェミニズムは性差別と家父長制に反対するという共通の基盤に立ちながらも、女性の必要や関心によって多様である」とし、「女性解放の闘いは他の社会変革の闘いと連携しなければならない、と同時に性的従属との闘いが階級闘争や民族解放の中に飲み込まれてしまってはならない」と、政治経済構造の変革とわかちがたく結びついた第三世界の女性たちにとってのフェミニズムを唱える。「フェミニズムは政治運動である」というのだ。第一世界のフェミニストたちが性的従属との闘いだけに傾きがちなのに対しても、第三世界の伝統的な左翼運動家たちがフェミニズムを運動の分裂をはかるかのように否定的に見るのに対しても批判する。
こうした基本的姿勢から、貧困と性的従属の両方を変えるビジョン、「人間の基本的必要が充たされ、あらゆる暴力から解放され、女性のもついたおりや連帯の価値が人間関係を特徴づけるような世界」を求める。そのための戦略は、女性が草の根レベルで大いに議論すべきだと呼びかける。「まず開発の方向を、貧しい女性たちの労働を中心に据えるように根本的に変えなければならない」。それには、輸出志向型の農業、工業政策を改める、世界中で軍事費と資源利用を減らす、多国籍企業を規制する、などの長期戦略を示す。
このような戦略の実行には女性組織が重要で、まず女性の力をつける方法を点検しなければならない。伝統的福祉中心、政党系列、労組、海外援助受け入れ型、草の根グループ、リサーチなど違ったタイプの女性団体があるが、様々な弱点や問題点をかかえている。それを克服するために、「一つは組織の民主化と会員基盤の拡大に努力し、もう一つは、個人の権力拡大を拒否する倫理を実践することが必要だ」とする。
その力をつけるにあたって、フェミニズムを第三世界の女性としてどうとらえるか。「フェミニズムは性差別と家父長制に反対するという共通の基盤に立ちながらも、女性の必要や関心によって多様である」とし、「女性解放の闘いは他の社会変革の闘いと連携しなければならない、と同時に性的従属との闘いが階級闘争や民族解放の中に飲み込まれてしまってはならない」と、政治経済構造の変革とわかちがたく結びついた第三世界の女性たちにとってのフェミニズムを唱える。「フェミニズムは政治運動である」というのだ。第一世界のフェミニストたちが性的従属との闘いだけに傾きがちなのに対しても、第三世界の伝統的な左翼運動家たちがフェミニズムを運動の分裂をはかるかのように否定的に見るのに対しても批判する。
こうした基本的姿勢から、貧困と性的従属の両方を変えるビジョン、「人間の基本的必要が充たされ、あらゆる暴力から解放され、女性のもついたおりや連帯の価値が人間関係を特徴づけるような世界」を求める。そのための戦略は、女性が草の根レベルで大いに議論すべきだと呼びかける。「まず開発の方向を、貧しい女性たちの労働を中心に据えるように根本的に変えなければならない」。それには、輸出志向型の農業、工業政策を改める、世界中で軍事費と資源利用を減らす、多国籍企業を規制する、などの長期戦略を示す。
このような戦略の実行には女性組織が重要で、まず女性の力をつける方法を点検しなければならない。伝統的福祉中心、政党系列、労組、海外援助受け入れ型、草の根グループ、リサーチなど違ったタイプの女性団体があるが、様々な弱点や問題点をかかえている。それを克服するために、「一つは組織の民主化と会員基盤の拡大に努力し、もう一つは、個人の権力拡大を拒否する倫理を実践することが必要だ」とする。
2015年12月18日金曜日
アイデンティティの防御
アイデンティティが透明なるがゆえのアイデンティティ不確実感は日本と日本人の「もろさ」へと直結する。これが日本人に盲目的なナショナリズムと「妄想」を生む土台となるからである。それゆえ、これについては後で詳しく論じることにする。
加えて、日本と日本人のアイデンティティの透明性は、それが「作為の法則」によってではなく、「自然の法則」によって形成されたものである、という点にも注意を払うべきである。
日本と日本人のアイデンティティの透明性は日本海という「天然の防壁」によって形成されたものだからである。まさにこの点で、要塞文明が持つ「作為の法則」によって生まれた人工国家アメリカと好対照をなしている。
だが、日本と日本人のアイデンティティの透明性は「自然の法則」によって生まれたために、「防御」に対する脆弱さという「もろさ」を原理的に抱えている。日本の無常感文明は、要塞文明と対峙した際に、押しまくられてなす術がない状態へと陥りやすいのである。
この点、「作為の法則」から生まれたアメリカが、常に自分たちのアイデンティティをどう維持してゆくかに自覚的にならざるをえないがゆえに、アイデンティティの防御に長けているのと好対照をなしている。
日本人の自我のひ弱さから文明のアイデンティティに至るまで、「防御」に対する脆弱さもまた日本文明の抱える「もろさ」の一つである。したがって、これについても後であらためて論じることにする。
加えて、日本と日本人のアイデンティティの透明性は、それが「作為の法則」によってではなく、「自然の法則」によって形成されたものである、という点にも注意を払うべきである。
日本と日本人のアイデンティティの透明性は日本海という「天然の防壁」によって形成されたものだからである。まさにこの点で、要塞文明が持つ「作為の法則」によって生まれた人工国家アメリカと好対照をなしている。
だが、日本と日本人のアイデンティティの透明性は「自然の法則」によって生まれたために、「防御」に対する脆弱さという「もろさ」を原理的に抱えている。日本の無常感文明は、要塞文明と対峙した際に、押しまくられてなす術がない状態へと陥りやすいのである。
この点、「作為の法則」から生まれたアメリカが、常に自分たちのアイデンティティをどう維持してゆくかに自覚的にならざるをえないがゆえに、アイデンティティの防御に長けているのと好対照をなしている。
日本人の自我のひ弱さから文明のアイデンティティに至るまで、「防御」に対する脆弱さもまた日本文明の抱える「もろさ」の一つである。したがって、これについても後であらためて論じることにする。
2015年11月19日木曜日
国民の生命と財産の守りを強化するという発想
無常感こそが、古代より今日までわが国に「防御」やダメージ・コントロールの思想をなかなか根づかせなかった根源なのである。西欧の童話『三匹の子豚』の話にあるように、「石の家」がオオカミの攻撃に対してもっとも防御力がある。オオカミとは平時における災害、有事における戦争のことである。西欧ではすでに古代ローマの時代から火事に弱い木造建築を禁止し、広場を造り、道路を広く取って火事に強い都市造りをはじめている。むろん広場は有事には兵士の集合場所となる。
公園も同様である。西欧では堅固な城壁を築いて戦争に備えるだけでなく、災害にも強い都市造りを古代から「作為的に」行なっているのである。これが要塞文明なのである。ところがわが国では室町時代あたりから都市が造られたのだが、そのオオカミに対する脆弱さは今日に至るも解消されたとは言い難い。江戸の密集した木造家屋はたびたび大地震や大火で灰燈に帰したし、関東大震災も同様であった。
日本の軍部は英米との戦争に備えて戦艦大和は造ったが、このもろく燃えやすい密集した木造家屋群をどうにかしよう、などという「防御」の発想は露ほども持たなかった。そこをアメリカ軍に突かれて、焼夷弾攻撃によって日本の都市は大損害をこうむったのである。日本の軍部は「攻撃は最良の防御なり」などといって攻撃力の強化や戦線の拡大ばかりに熱心で、日本に堅固な防災兼防御都市を造ることで、肝心要の国民の生命と財産の守りを強化する、という発想が皆無だったのである。
公園も同様である。西欧では堅固な城壁を築いて戦争に備えるだけでなく、災害にも強い都市造りを古代から「作為的に」行なっているのである。これが要塞文明なのである。ところがわが国では室町時代あたりから都市が造られたのだが、そのオオカミに対する脆弱さは今日に至るも解消されたとは言い難い。江戸の密集した木造家屋はたびたび大地震や大火で灰燈に帰したし、関東大震災も同様であった。
日本の軍部は英米との戦争に備えて戦艦大和は造ったが、このもろく燃えやすい密集した木造家屋群をどうにかしよう、などという「防御」の発想は露ほども持たなかった。そこをアメリカ軍に突かれて、焼夷弾攻撃によって日本の都市は大損害をこうむったのである。日本の軍部は「攻撃は最良の防御なり」などといって攻撃力の強化や戦線の拡大ばかりに熱心で、日本に堅固な防災兼防御都市を造ることで、肝心要の国民の生命と財産の守りを強化する、という発想が皆無だったのである。
2015年10月19日月曜日
ひろい視野での優先順位の見直し
また保険料は均一とするのか、所得状況を付加するのか。構想では、家庭内介護には保険からの支払いを行わないようであるが、家族の「犠牲」をそのまま放置するのか。家庭内介護者が介護保険料を支払いつつ、他方で自らの生活を犠牲として介護に従事すること自体、大きな矛盾ではないのか。あるいはまた、老齢年金受給者からも保険料の徴収が構想されているが、すでにみた年金の給付状況では、高齢者に保険が機能するほどの保険料支払能力があるのだろうか。
さらに、国と自治体による介護保険制度への財政援助も構想されているが、保険である以上、事業経営主体である保険者を誰にするのか。国保と同様に市町村とする意見もあるが、その場合には、再論するまでもなく保険として機能する条件は、はじめからきわめて限定されていよう。国による一元的保険あるいは都道府県を単位とする広域保険とするばあい、基本的に保険料徴収基準は画一的となるだろう。
その時、地域間における公的介護施設や在宅サービスの水準の格差をどうするのか。それは医療保険における施設や医師などのヒューマンーパワーの格差以上に、深刻な実施上の問題となるだろう。ここに指摘したような疑問は、厚生省の関連諮問機関および厚生官僚制内部から、説得力あるプランとして、なにひとつ示されていない。細部を明らかにしないまま「ドイツに続け」(九五年から導入)では、あまりにも拙速である。
介護保険制度が、内部の細かい議論をはぶいたまま実現に向かって動き出そうとしている。その背後には、「消費税の増税装置」との見方もくすぶっている。なぜならば、介護保険制度を導入する時、いずれにしても国庫負担は避けられないし、増加していかざるをえない。それは大蔵省のねらう消費税の税率引き上げに正当性を与える。しかし、消費税率が引き上げられても、介護保険基盤の安定のための国庫支出金が増える保証はない。
深刻な高齢化の進行は、国民所得にしめる租税・社会保障費負担の増加を避けて通ることはできまい。だからこそ、特定政策分野に視野を限定した「粗雑」な費用負担制度を、構想してはならないのである。消費税を「益税」などという言葉が生じないような付加価値税に改めるのは当然として、予算の優先順位を全体として見直し、高齢化社会における市民生活の安定のための予算政策が、考えられなくてはなるまい。前節でみたような公共事業予算の構造をそのままにしておいて、財源難の解決を増税ないし新たな社会保障負担に求めても、納税者の理解を得るのは難しい。高齢化社会における予算政策は、日本の政治にとって「未知」の世界である。それだけに政治の責任と創造力が試されている。
さらに、国と自治体による介護保険制度への財政援助も構想されているが、保険である以上、事業経営主体である保険者を誰にするのか。国保と同様に市町村とする意見もあるが、その場合には、再論するまでもなく保険として機能する条件は、はじめからきわめて限定されていよう。国による一元的保険あるいは都道府県を単位とする広域保険とするばあい、基本的に保険料徴収基準は画一的となるだろう。
その時、地域間における公的介護施設や在宅サービスの水準の格差をどうするのか。それは医療保険における施設や医師などのヒューマンーパワーの格差以上に、深刻な実施上の問題となるだろう。ここに指摘したような疑問は、厚生省の関連諮問機関および厚生官僚制内部から、説得力あるプランとして、なにひとつ示されていない。細部を明らかにしないまま「ドイツに続け」(九五年から導入)では、あまりにも拙速である。
介護保険制度が、内部の細かい議論をはぶいたまま実現に向かって動き出そうとしている。その背後には、「消費税の増税装置」との見方もくすぶっている。なぜならば、介護保険制度を導入する時、いずれにしても国庫負担は避けられないし、増加していかざるをえない。それは大蔵省のねらう消費税の税率引き上げに正当性を与える。しかし、消費税率が引き上げられても、介護保険基盤の安定のための国庫支出金が増える保証はない。
深刻な高齢化の進行は、国民所得にしめる租税・社会保障費負担の増加を避けて通ることはできまい。だからこそ、特定政策分野に視野を限定した「粗雑」な費用負担制度を、構想してはならないのである。消費税を「益税」などという言葉が生じないような付加価値税に改めるのは当然として、予算の優先順位を全体として見直し、高齢化社会における市民生活の安定のための予算政策が、考えられなくてはなるまい。前節でみたような公共事業予算の構造をそのままにしておいて、財源難の解決を増税ないし新たな社会保障負担に求めても、納税者の理解を得るのは難しい。高齢化社会における予算政策は、日本の政治にとって「未知」の世界である。それだけに政治の責任と創造力が試されている。
2015年9月18日金曜日
日本列島の自然環境
都市の生活空間に影響を与える自然環境について考える場合も、いちおう当てぱめることができよう。事実、都市生態学という分野では、そうした手法にもとづく研究が積み重ねられている。つまり、自然生態系を考察するさいの、方法上のアナロジーによって。都市生態系”を科学的に把握しようとするものであり、生態学の応用分野として位置づけられている。
しかし、都市生態系が自然生態系と多くの点で共通性をもちながらも、やはり基本的に異なっているのは、環境に対する人間(都市生活者)の主体的な働きかけが重要な要因をなしているという事実であろう。要するに、都市に影響を及ぼす自然環境についても、さまざまな人工物や人間の諸活動にともなうリアクションとともに、都市空間独特の自然的環境が醸成されるようになっていくのである。ここから、都市のアメニティをめぐる問題が、特別の色彩をもって浮かび上がることにもなるわけである。
ところで、都市の自然環境について述べるまえに、日本全体の自然にかんする特徴をざっと見ておこう。日本の自然環境には、いくつかの際立った特色があることが知られている。第一に、日本列島は気候分布上、温帯に属しながら気温の年格差が大きく、冬はより寒く、夏はより暑い。しかも、季節風に位置する日本列島は、冬季にはシベリアからの冷たい気流が流れ込み、夏季には南方洋上から湿った暖かい気流が押し寄せるため、寒暖の差がいっそう大きくなる傾向を見せる。
そのため、植物相も、北方寒地系と南方暖地系の植物が入り混じり、独特の群落と景観をかたちづくっている。第二に、降水量が非常に多い。日本の降水量は年平均一七〇〇ミリだが、これは世界の年平均降水量七五〇~一〇〇〇ミリのほぼ二倍に相当する。とはいうものの、その降水量は地域によって相当の開きがあり、北海道の一部や信州、瀬戸内沿岸部などは、年間降水量がー○○ミリにも満たない。ところが、琉球列島-九州-四国-紀伊半島-東海地方などの太平洋沿岸部と、逆に北陸-東北にいたる日本海沿岸部では、二四〇〇ミリを超える降水地域が広がっているという具合である。
しかし、都市生態系が自然生態系と多くの点で共通性をもちながらも、やはり基本的に異なっているのは、環境に対する人間(都市生活者)の主体的な働きかけが重要な要因をなしているという事実であろう。要するに、都市に影響を及ぼす自然環境についても、さまざまな人工物や人間の諸活動にともなうリアクションとともに、都市空間独特の自然的環境が醸成されるようになっていくのである。ここから、都市のアメニティをめぐる問題が、特別の色彩をもって浮かび上がることにもなるわけである。
ところで、都市の自然環境について述べるまえに、日本全体の自然にかんする特徴をざっと見ておこう。日本の自然環境には、いくつかの際立った特色があることが知られている。第一に、日本列島は気候分布上、温帯に属しながら気温の年格差が大きく、冬はより寒く、夏はより暑い。しかも、季節風に位置する日本列島は、冬季にはシベリアからの冷たい気流が流れ込み、夏季には南方洋上から湿った暖かい気流が押し寄せるため、寒暖の差がいっそう大きくなる傾向を見せる。
そのため、植物相も、北方寒地系と南方暖地系の植物が入り混じり、独特の群落と景観をかたちづくっている。第二に、降水量が非常に多い。日本の降水量は年平均一七〇〇ミリだが、これは世界の年平均降水量七五〇~一〇〇〇ミリのほぼ二倍に相当する。とはいうものの、その降水量は地域によって相当の開きがあり、北海道の一部や信州、瀬戸内沿岸部などは、年間降水量がー○○ミリにも満たない。ところが、琉球列島-九州-四国-紀伊半島-東海地方などの太平洋沿岸部と、逆に北陸-東北にいたる日本海沿岸部では、二四〇〇ミリを超える降水地域が広がっているという具合である。
2015年8月25日火曜日
アメリカ企業の活況
それによると、第一は、八〇年代に行ったコンピューターと情報技術への巨大投資が実を結んだこと(一人当たりで世界平均の八倍)、第二に、金融の多様化とブームである。後者は規制撤廃によって、高収益性を挙げるような好パフォーマンスの新金融商品が続々と登場することによって、中産階層の貯蓄投資先の選択肢を広げた。これら二つの要因に加えて、「透明な企業情報」の存在をザ″カーマンは強調する。かれがアメリカの金融システムをきわめ工局く評価するのは、そのディスクロージャーの故である。さしずめ、キーワードは情報と金融であり、その二つのファクターを結びつけているのが透明性ということになる。
九〇年代、アメリカの株価が上昇し続けたのは、アメリカ企業、とりわけ情報通信産業や金融機関、あるいは自動車産業も消費者小売りも、さらにはミューチュアルーファンドやへでジファンドも、増収増益を謳歌する企業群が産業分野の違いをこえて出現したからである。そこで、世界企業番付からアメリカ企業の位置を確認しておきたい。代表的な企業番付である『フォーチュン』(98年8月3日)恒例の「世界大企業番付」では、九七年の売上高番付で、五〇〇社中アメリカ企業は一七五社を占めてトップで、二一社の日本企業を引き離している(ドイツ四二社、フランス三九社)。上位一〇社(売上局)では、五社が日本企業であり、米企業の四社より多いが、上位一〇傑に入る日本企業のすべてが総合商社(三位三井物産、四位三菱商事、六位伊藤忠、九位丸紅、一〇位住友商事)である。
ちなみに、この統計では、金融業も同列に分類されているが、銀行業の「売上高」とは金利収入と非金利収入(経費を差し引く前)を合計したものである。ただし、何を尺度として測るかによって企業番付は大きく異なる。利益額で見てみよう。上位はアメリカ企業の圧倒的独占である。上位八社は三位のロイヤルーダッチーシェルを除くと、すべてアメリカ企業で、一位エクソン、二位GE、四位インテル、五位フォードーモーター、六位GM、七位フィリップモリス、八位IBMとお馴染みの名前が続く。日本企業トップは、二一位トヨタ、五六位NTT、六〇位ホンダ、六二位日本生命、九五位第一生命。上位一〇〇社に入るのはこのわずか五社にすぎない(次は東京電力一四二位、明治生命一五二位)。
さらに、収益性では格差はもっと広がる。純益ノ収入比では、一位マイクロソフト、三位インテル、、純益/資産比では、二位インテル、三位マイクロソフト、四位デルーコンピューターと続く。ところが、収益性で上位五〇傑に日本企業は入っていない。収益性の上位に、コンピューター・ソフト会社が多いのは時代的特徴を反映したものだろう。興味深いのは、インテルの売上高番付が五位にすぎず、マイクロソフトに至っては四〇〇位に後退することである。ところが、純益/収入比となると、一位のマイクロソフトは三〇・四%、三位のインテルは二七・七%と高騰する。
それらと対照的なのが。日本の商社で、売上高では上位に並ぶ総合商社も、純益ではさっぱりである。いずれの総合商社も純益では二〇〇位以下に転落する(三井物産三三六位、三菱商事二八七位、伊藤忠四八四位、丸紅三八八位、住友商事三六〇位)。企業業績は売上高や純益だけではなく、当該企業が市場でどのように評価されたかが重要な指標になりつつある。そこで『ビジネスーウィーク』(98年7月13日)は、企業の株式時価総額番付を発表している。それによると、株式市場の好不調を反映して、日米の企業に大きな差が生じている(以下の株価のデータは、すべて九八年五月二九日の時点による)。
九〇年代、アメリカの株価が上昇し続けたのは、アメリカ企業、とりわけ情報通信産業や金融機関、あるいは自動車産業も消費者小売りも、さらにはミューチュアルーファンドやへでジファンドも、増収増益を謳歌する企業群が産業分野の違いをこえて出現したからである。そこで、世界企業番付からアメリカ企業の位置を確認しておきたい。代表的な企業番付である『フォーチュン』(98年8月3日)恒例の「世界大企業番付」では、九七年の売上高番付で、五〇〇社中アメリカ企業は一七五社を占めてトップで、二一社の日本企業を引き離している(ドイツ四二社、フランス三九社)。上位一〇社(売上局)では、五社が日本企業であり、米企業の四社より多いが、上位一〇傑に入る日本企業のすべてが総合商社(三位三井物産、四位三菱商事、六位伊藤忠、九位丸紅、一〇位住友商事)である。
ちなみに、この統計では、金融業も同列に分類されているが、銀行業の「売上高」とは金利収入と非金利収入(経費を差し引く前)を合計したものである。ただし、何を尺度として測るかによって企業番付は大きく異なる。利益額で見てみよう。上位はアメリカ企業の圧倒的独占である。上位八社は三位のロイヤルーダッチーシェルを除くと、すべてアメリカ企業で、一位エクソン、二位GE、四位インテル、五位フォードーモーター、六位GM、七位フィリップモリス、八位IBMとお馴染みの名前が続く。日本企業トップは、二一位トヨタ、五六位NTT、六〇位ホンダ、六二位日本生命、九五位第一生命。上位一〇〇社に入るのはこのわずか五社にすぎない(次は東京電力一四二位、明治生命一五二位)。
さらに、収益性では格差はもっと広がる。純益ノ収入比では、一位マイクロソフト、三位インテル、、純益/資産比では、二位インテル、三位マイクロソフト、四位デルーコンピューターと続く。ところが、収益性で上位五〇傑に日本企業は入っていない。収益性の上位に、コンピューター・ソフト会社が多いのは時代的特徴を反映したものだろう。興味深いのは、インテルの売上高番付が五位にすぎず、マイクロソフトに至っては四〇〇位に後退することである。ところが、純益/収入比となると、一位のマイクロソフトは三〇・四%、三位のインテルは二七・七%と高騰する。
それらと対照的なのが。日本の商社で、売上高では上位に並ぶ総合商社も、純益ではさっぱりである。いずれの総合商社も純益では二〇〇位以下に転落する(三井物産三三六位、三菱商事二八七位、伊藤忠四八四位、丸紅三八八位、住友商事三六〇位)。企業業績は売上高や純益だけではなく、当該企業が市場でどのように評価されたかが重要な指標になりつつある。そこで『ビジネスーウィーク』(98年7月13日)は、企業の株式時価総額番付を発表している。それによると、株式市場の好不調を反映して、日米の企業に大きな差が生じている(以下の株価のデータは、すべて九八年五月二九日の時点による)。
2015年7月20日月曜日
富の源泉は労働生産性
今回、『国富論』を全訳(山岡訳)で初めて読んで、学生のころ中央公論版の抄訳で読んだときと違う意味で、おもしろい本だと感じました。それは今、日本が直面している問題が、この本に書かれている近代的個人と古い社会の闘いと似た部分があるからです。なぜイギリスで産業革命が起こったのかというのは経済史上の大問題で、いろいろな説があります。有名なのはマルクスの本源的蓄積とかウェーバーのプロテスタンティズムですが、今の実証的な経済史では問題にならない。では、何か西洋近代の成長の原因だったのか。いまだに決定的なことはわからないのですが、その一つとして考えられるのが「有用な知識」だと経済史家のジョエルーモキアは最近の本で書いています。
知識というのは、伝統的に役に立ってはいけないと思われていました。典型的なのが神学です。産業革命の一つの原因は、それまで職人の経験的な知識だった技術が、科学という体系的な学問と結びつくことによって、飛躍的に効率が上がったことにあります。そのとき学問が特殊な聖職者のものではなく、世俗的な「有用な知識」として普通の企業家の使えるものになることが重要でした。それが啓蒙思想の果たした役割です。啓蒙思想の中心的な古典で、原題はそのまま訳すと『諸国の富の性質と原因についての研究』です。「諸国民の富」と訳す場合もありますが、内容的には、どの国がどういう政策をとると豊かになるかという「比較政策論」という感じです。
イギリスがあり、フランスがあり、オランダがあり、いろんな国がいろんな政策をとっているが、イギリスの自由主義経済がいちばんいいんだという話なので、Nationsは「諸国」と訳したほうがいいと思います。最近の言葉でいうと、「成長戦略」です。スミスが何を言おうとしているかというと、富の源泉は労働だというわけです。単なる労働は昔からあるわけですが、労働者がいかに能率よく労働するか最近の言葉でいえば労働生産性が大切なんだと。これは現代の日本でも大事なことを言っていると思います。これから日本の労働人口がどんどん減っていくわけで、労働人口が減っているときに富を維持しようと思ったら、労働生産性を上げるしかない。そういう意味で『国富論』を労働生産性という観点から読み直してみることも意味があると思います。
では、なぜ労働生産性が上がったのか。近代以前の社会と近代社会を比べて何がいちばんの大きな違いかというときに、スミスが言ったのは「分業」です。ピンを一人で作ったら一日二〇個しか作れないが、一〇人で一八の工程で作ったら四万八〇〇〇個作れたという有名な寓話です。昔の社会では分業がなくて、すべての集落が自給自足で、いろいろなものを一人でつくっていた。そうすると農業の得意な人が武器をつくってもいいものができない。それより農業に専念して、余った農産物を武器と交換したほうがいい。この場合の分業は、単に手分けしてやるということではなくて、できたものを市場で交換することと一体になっているわけです。
ただ分業の話は前置きで、『国富論』全体を読むと圧倒的に重点が置かれているのは、重商主義の批判と自由貿易の擁護です。学問的な書き方ですが、ある種の政治的プロパガンダです。イギリスがいちばん進んでいる、遅れている他の国は農業を保護するとか関税をかけるとかやっているから遅れるのだ、という話です。『国富論』は一般的に経済を語っているのではなく、重商主義を批判する宣伝文書なのです。重商主義というと昔の話だと思う人が多いでしょうが、いつの時代にも出てくるのです。この前、中野剛志という経済産業省から京都大学に出向している若い官僚が、TPP(環太平洋パートナーシップ)を批判しているのを見ました。その理由は「TPPの参加国はアメリカ以外は小国ばかりで、実態はアメリカとの自由貿易協定だ」という。
知識というのは、伝統的に役に立ってはいけないと思われていました。典型的なのが神学です。産業革命の一つの原因は、それまで職人の経験的な知識だった技術が、科学という体系的な学問と結びつくことによって、飛躍的に効率が上がったことにあります。そのとき学問が特殊な聖職者のものではなく、世俗的な「有用な知識」として普通の企業家の使えるものになることが重要でした。それが啓蒙思想の果たした役割です。啓蒙思想の中心的な古典で、原題はそのまま訳すと『諸国の富の性質と原因についての研究』です。「諸国民の富」と訳す場合もありますが、内容的には、どの国がどういう政策をとると豊かになるかという「比較政策論」という感じです。
イギリスがあり、フランスがあり、オランダがあり、いろんな国がいろんな政策をとっているが、イギリスの自由主義経済がいちばんいいんだという話なので、Nationsは「諸国」と訳したほうがいいと思います。最近の言葉でいうと、「成長戦略」です。スミスが何を言おうとしているかというと、富の源泉は労働だというわけです。単なる労働は昔からあるわけですが、労働者がいかに能率よく労働するか最近の言葉でいえば労働生産性が大切なんだと。これは現代の日本でも大事なことを言っていると思います。これから日本の労働人口がどんどん減っていくわけで、労働人口が減っているときに富を維持しようと思ったら、労働生産性を上げるしかない。そういう意味で『国富論』を労働生産性という観点から読み直してみることも意味があると思います。
では、なぜ労働生産性が上がったのか。近代以前の社会と近代社会を比べて何がいちばんの大きな違いかというときに、スミスが言ったのは「分業」です。ピンを一人で作ったら一日二〇個しか作れないが、一〇人で一八の工程で作ったら四万八〇〇〇個作れたという有名な寓話です。昔の社会では分業がなくて、すべての集落が自給自足で、いろいろなものを一人でつくっていた。そうすると農業の得意な人が武器をつくってもいいものができない。それより農業に専念して、余った農産物を武器と交換したほうがいい。この場合の分業は、単に手分けしてやるということではなくて、できたものを市場で交換することと一体になっているわけです。
ただ分業の話は前置きで、『国富論』全体を読むと圧倒的に重点が置かれているのは、重商主義の批判と自由貿易の擁護です。学問的な書き方ですが、ある種の政治的プロパガンダです。イギリスがいちばん進んでいる、遅れている他の国は農業を保護するとか関税をかけるとかやっているから遅れるのだ、という話です。『国富論』は一般的に経済を語っているのではなく、重商主義を批判する宣伝文書なのです。重商主義というと昔の話だと思う人が多いでしょうが、いつの時代にも出てくるのです。この前、中野剛志という経済産業省から京都大学に出向している若い官僚が、TPP(環太平洋パートナーシップ)を批判しているのを見ました。その理由は「TPPの参加国はアメリカ以外は小国ばかりで、実態はアメリカとの自由貿易協定だ」という。
2015年6月18日木曜日
人的インフラストラクチャーの不足
輸送手段にしても、市場経済では中央集中型の鉄道輸送でなく、地方分散型のトラック輸送が主役だが、いまの東欧諸国には道路もトラックもない褐炭を使った火力発電所や西側の安全基準に遠く及ばない原子力発電所など東欧諸国の環境破壊の現状を見ると、生産を拡大するために新しい発電施設を作るより以前に、まず現存施設の安全対策に多額の投資をする必要がある。ドイツではすでに一一基ある東ドイツの原子力発電所のうち六基を閉鎖する決定が下された。だか、代わりの発電所を作る金はどこから出るのだろ
ソ連のように一種類の製品につき一ヵ所しか生産施設を持たない国が工場を非国有化すれば、独占企業がつぎつぎに誕生して価格をつり上げるのは目に見えている。価格競争のある市場を作るためには新しく工場を建設しなければならないが、そんな金はない。たとえ金があったとしても、新しい工場は一晩や二晩で作れるものではない。
農民たちも、資本主義農業への転換に二の足を踏んでいる。どこでトラクターを買えばいいのか、どこでガソリンを買えばいいのか、どこで種を買えばいいのか、見当もつかないのだ。作物が収穫できたとして、こんどはどうやって運べばいいのか、どこへ売りに行けばよいのか。農業器具を売る側も、あるいは農作物を買い取る側も、農民のほうから商売を持ちかけてくるまで動かない。みんな相手が最初の一歩を踏みだすのを待っている。最初に事を起こせば、かなりのコストがかかるし、まわりが同調しない危険性もある。結局、だれも最初に商売を始めようとしないのだ。
東欧の労働力は一応の教育水準に達しているものの、市場経済に適応するにはまだ足りないものがある。第一に勤労意欲が。旧共産圏諸国を訪れたことのある人なら誰でも気づくことだが、工場労働者の勤労意欲は非常に低い。ソ連ではやっていたジョークか理由をうまく言い当てている。「労働者は働くふりをするのさ。政府が給料を払うふりをするから」。働いても金にならないなら、誰も働く気にはなるまい。
これからは働けば金になるかもしれないか、生まれてこのかた共産主義経済の下でやってきた労働者たちには、一生懸命に働かない生き方が骨の髄まで染みこんでしまっている。ちゃんとしたインセンティヴを与えられれば、彼らもやる気を起こすだろうか?一所懸命働けばいい暮らしができるということになれば、みんな一所懸命働くようになるだろうか?確たる答えはどこにもないが、私はたぶんそうなるだろうと考えている。資本主義諸国から流人してくる商品を手に入れたいという意欲にひっぱられて働くようになると思うからだ。だが、私の予想ははずれるかもしれない。
ソ連のように一種類の製品につき一ヵ所しか生産施設を持たない国が工場を非国有化すれば、独占企業がつぎつぎに誕生して価格をつり上げるのは目に見えている。価格競争のある市場を作るためには新しく工場を建設しなければならないが、そんな金はない。たとえ金があったとしても、新しい工場は一晩や二晩で作れるものではない。
農民たちも、資本主義農業への転換に二の足を踏んでいる。どこでトラクターを買えばいいのか、どこでガソリンを買えばいいのか、どこで種を買えばいいのか、見当もつかないのだ。作物が収穫できたとして、こんどはどうやって運べばいいのか、どこへ売りに行けばよいのか。農業器具を売る側も、あるいは農作物を買い取る側も、農民のほうから商売を持ちかけてくるまで動かない。みんな相手が最初の一歩を踏みだすのを待っている。最初に事を起こせば、かなりのコストがかかるし、まわりが同調しない危険性もある。結局、だれも最初に商売を始めようとしないのだ。
東欧の労働力は一応の教育水準に達しているものの、市場経済に適応するにはまだ足りないものがある。第一に勤労意欲が。旧共産圏諸国を訪れたことのある人なら誰でも気づくことだが、工場労働者の勤労意欲は非常に低い。ソ連ではやっていたジョークか理由をうまく言い当てている。「労働者は働くふりをするのさ。政府が給料を払うふりをするから」。働いても金にならないなら、誰も働く気にはなるまい。
これからは働けば金になるかもしれないか、生まれてこのかた共産主義経済の下でやってきた労働者たちには、一生懸命に働かない生き方が骨の髄まで染みこんでしまっている。ちゃんとしたインセンティヴを与えられれば、彼らもやる気を起こすだろうか?一所懸命働けばいい暮らしができるということになれば、みんな一所懸命働くようになるだろうか?確たる答えはどこにもないが、私はたぶんそうなるだろうと考えている。資本主義諸国から流人してくる商品を手に入れたいという意欲にひっぱられて働くようになると思うからだ。だが、私の予想ははずれるかもしれない。
2015年5月23日土曜日
奇妙な部屋
だがそれでは困る。そこで目標会議ではまず、誰がなにを担当しているのかをはっきりさせる。そのうえで、一週間ではなにをどういう方法でやっておくのか、一ヵ月後はどういう目標か、また三ヵ月にはどういう目標かを、私と討論しながら決めてゆくのである。漠然となにかを考えているのではなく、それを具体的にどう進めてゆくか、なにをどういう観点で調べるとか、誰になんの目的で会ったり、どんな方向で交渉してみるかを決める。
もちろんこの会議以外のときでも随時、打合せ、指示などのフィードバックはするのだが、皆のいる前で、かんたんでも、問題をはっきりさせておくことに意味がある。それが大テーブル主義である。それに、若い人たちが発言をする訓練にもなるし、なによりも若い人たちに、自分の仕事として自覚してもらい。精いっぱいの力を引きだす機会になる。若い弾力性ある人びとの力を伸ぼさなくては、新しい仕事はできない。上の方だけでこそこそ話をしていて、ときどき情報のかけらを下に流すのでは、「やる気をだせ」といってもだめである。
そんなことをいわなくても、情報をどんどん流し共有化し、発言をさせ、一緒になって考えていれば、若い人たちは自らやる気をだしてくるものである。指示も適切、確実でタイミングが必要である。実際に衝に当たる人びとにじかに伝えるほうがよい。ただし、大テーブル主義を実行してゆくのに、一人一人全部を相手にするのだから、長の立場はたいへんである。私が局長の頃、最終には局の人員が六〇人を超えていた。これは限界であったろう。
ルーチン化、定型化をせず、総合性を要する仕事には、こうした方法が必要である。企画調整局の内部がばらばらになってはなんにもならない。また若い人に自由に発言してもらうことは、私自身もフレッシュにものを考える刺激になる。もちろん課長、部長の管理職とは、別に管理問題、人事問題、議会問題などの打合せをする。それはそれで、目標会議の方向を実務の上で実現するために、重要な役割を果たすのである。
奇妙な部屋ではこんなふうに、部屋の様子や、ちょっとした備品、仕事の進め方、会議の方法も変わっていた。次第に古めかしい役所流は払拭されてゆく。人間は変わってゆくものである。そのうちに役所でない外部で育った人びとも市に入ってきた。従来から役所で育った人びととは、お互いにいい刺激になり、どちらも成長してくる。これまでのお役所式といわれるのは、法令とか前例とかだけで仕事をする。固くるしい形式論理の上に立っており、新しい課題が現われても法令に書いてないとか、予算がないとかいって避けてしまう。創造的な仕事には前例がないと否定する。こうした自らの思考を停止してしまう状態が一般的であったが、これでは「定型的固定型」である。
もちろんこの会議以外のときでも随時、打合せ、指示などのフィードバックはするのだが、皆のいる前で、かんたんでも、問題をはっきりさせておくことに意味がある。それが大テーブル主義である。それに、若い人たちが発言をする訓練にもなるし、なによりも若い人たちに、自分の仕事として自覚してもらい。精いっぱいの力を引きだす機会になる。若い弾力性ある人びとの力を伸ぼさなくては、新しい仕事はできない。上の方だけでこそこそ話をしていて、ときどき情報のかけらを下に流すのでは、「やる気をだせ」といってもだめである。
そんなことをいわなくても、情報をどんどん流し共有化し、発言をさせ、一緒になって考えていれば、若い人たちは自らやる気をだしてくるものである。指示も適切、確実でタイミングが必要である。実際に衝に当たる人びとにじかに伝えるほうがよい。ただし、大テーブル主義を実行してゆくのに、一人一人全部を相手にするのだから、長の立場はたいへんである。私が局長の頃、最終には局の人員が六〇人を超えていた。これは限界であったろう。
ルーチン化、定型化をせず、総合性を要する仕事には、こうした方法が必要である。企画調整局の内部がばらばらになってはなんにもならない。また若い人に自由に発言してもらうことは、私自身もフレッシュにものを考える刺激になる。もちろん課長、部長の管理職とは、別に管理問題、人事問題、議会問題などの打合せをする。それはそれで、目標会議の方向を実務の上で実現するために、重要な役割を果たすのである。
奇妙な部屋ではこんなふうに、部屋の様子や、ちょっとした備品、仕事の進め方、会議の方法も変わっていた。次第に古めかしい役所流は払拭されてゆく。人間は変わってゆくものである。そのうちに役所でない外部で育った人びとも市に入ってきた。従来から役所で育った人びととは、お互いにいい刺激になり、どちらも成長してくる。これまでのお役所式といわれるのは、法令とか前例とかだけで仕事をする。固くるしい形式論理の上に立っており、新しい課題が現われても法令に書いてないとか、予算がないとかいって避けてしまう。創造的な仕事には前例がないと否定する。こうした自らの思考を停止してしまう状態が一般的であったが、これでは「定型的固定型」である。
2015年4月18日土曜日
従来の抹殺療法的発想が通用しない
常在微生物を、原因病原体として目の敵にするという従来の抹殺療法的発想が通用しない面が出てくる。身体の中にまったく常在菌が存在しない動物を無菌動物という。無菌動物を作るときには妊娠動物に帝王切開を行なって胎児を無菌的に取り出し、飼料や飲用水を含めて全体を無菌的状態にした、外界と隔絶された飼育箱で飼うわけである。その後、無菌動物の生活は繁殖を含めて、代々この無菌的飼育箱の中で行なわれることになる。抹殺療法的な考え方で日和見感染症を治療すると、患者から常在微生物をすべて除去したあと(実際は不可能に近いが)、この無菌動物と同じ環境で生活させなければならなくなる。
これは原理的には不可能ではないだろうが、実現はかなり困難なことである。やはり日和見感染症の治療には、患者の抵抗力を元通りにすることを試みると同時に、常在菌が根絶されなくとも、宿主が日常生活に支障を来たさないようにすることに主眼を置くべきだろう。普通の病原微生物を古典的病原体とよぶとすれば、常在微生物は日和見感染症病原体ということになる。常在菌の病原性の本質を病原微生物と対比して研究する必要があるが、常在微生物は古典的病原体に比べて個性が乏しく、標的とされる弱点が少ない。さらに宿主の抵抗力が低い状態にある日和見感染症の治療は、古典的病原体による感染症に対するものより難しいという。
これは原理的には不可能ではないだろうが、実現はかなり困難なことである。やはり日和見感染症の治療には、患者の抵抗力を元通りにすることを試みると同時に、常在菌が根絶されなくとも、宿主が日常生活に支障を来たさないようにすることに主眼を置くべきだろう。普通の病原微生物を古典的病原体とよぶとすれば、常在微生物は日和見感染症病原体ということになる。常在菌の病原性の本質を病原微生物と対比して研究する必要があるが、常在微生物は古典的病原体に比べて個性が乏しく、標的とされる弱点が少ない。さらに宿主の抵抗力が低い状態にある日和見感染症の治療は、古典的病原体による感染症に対するものより難しいという。
2015年3月19日木曜日
中国への直接投資額の急上昇
日本でのアメリカの軍用機の組み立てに似ていて、その目的は経済収益をあげるにとどまらず、組み立て生産システムそのものを習得し、一部部品は中国でも生産して、中国の設計・生産技術を高めることにもある。郵小平は天安門動乱以後の中国経済のこのような変化を見て、一九九二年の一月から二月にかけて、経済特区を視察し、この地域の経済発展は中国の将来の一つのパターンとして重要な意味を持つと判断したのであろう。それに応えて、ことにハイテク製品の製造企業には、その製品を全量海外輸出に向けることを条件として、経済特区での優遇措置をさらに拡大する法律が作成された。海外資本の中国への直接投資額は、一九九一年の二八九億ドルから九二年の四三七億ドルヘ、さらに九三年には六七〇億ドルヘと急上昇を遂げたのであった。
趙紫陽も沿海各地を視察した後、「わが国沿海地域の経済は、有利な発展のチャンスを迎えている。先進諸国・地域は、たえず産業構造を調整し、労働集約産業は労賃の低いところへ移りつつある。この移動において、わが国の沿海地域はおおいに吸引力を持っているはずだ」と語ったのである。部小平も趙紫陽も、日本を追ったアジアNIESの経済発展のパターンを、中国沿岸地域に持ち込もうとしたのであるが、彼らはむろん、それが中国経済の発展のパターンの一部に過ぎないことを承知していたであろう。中国と他の東アジア諸国との経済と技術との違いは、中国が、アメリカやロシアやヨーロとハ諸国と宇宙ビジネスで競り合うほどの、高度の技術力を持っている一方、全国農村に展開する郷鎮企業が比較的素朴な技術できわめて大衆的な工業製品を製造し、それが中国の日用品やセメント、石炭などの国内需要を満たしているばかりでなく、輸出貿易においてもきわめて重要な役割をはたしていることである。
趙紫陽も沿海各地を視察した後、「わが国沿海地域の経済は、有利な発展のチャンスを迎えている。先進諸国・地域は、たえず産業構造を調整し、労働集約産業は労賃の低いところへ移りつつある。この移動において、わが国の沿海地域はおおいに吸引力を持っているはずだ」と語ったのである。部小平も趙紫陽も、日本を追ったアジアNIESの経済発展のパターンを、中国沿岸地域に持ち込もうとしたのであるが、彼らはむろん、それが中国経済の発展のパターンの一部に過ぎないことを承知していたであろう。中国と他の東アジア諸国との経済と技術との違いは、中国が、アメリカやロシアやヨーロとハ諸国と宇宙ビジネスで競り合うほどの、高度の技術力を持っている一方、全国農村に展開する郷鎮企業が比較的素朴な技術できわめて大衆的な工業製品を製造し、それが中国の日用品やセメント、石炭などの国内需要を満たしているばかりでなく、輸出貿易においてもきわめて重要な役割をはたしていることである。
2015年2月19日木曜日
日本は高コストか
ドルの下落を媒介として、債務国・アメリカでは経済の好循環が続いた。一方、債権国・日本が90年代に入って経験した不況は、戦後未曾有のものであった。
この不況の原因は、じつは複雑である。金融機関の不良債権問題のみが声高に叫ばれたのは、その解決が急がれたという意味では正論であろうが、そればかりが強調されては不況の全体像を捉え損ねることにもなりかねない。
不良債権問題それ自体が、プラザ合意後の対米協調金利政策の結果であることはこれまでに見てきたとおりだが、ここで強調しなければならないのは、アメリカの円高誘導策が平成不況に及ぼした直接的な影響についてである。
まず、これをモノ作り部門について見てみよう。バブル崩壊のもとでの円高の進行は、アメリカの好況のちょうど裏返しの影響を日本経済に与えたといえる。その中心的経路は、製造業との関連では次のように整理される。
「円高→輸出減・輸入増→鉱工業生産の低下→労働生産性の停滞→単位労働コストの底上げ」さらに実効レートによる円高の程度がドル安のそれより大きかったことが、その影響をはるかに強烈なものとした。先にアメリカのドルについて見た為替の実効レートは、円の場合、95年には90年に対し約4割も上昇している。これは、主要貿易相手国としてアメリカの占める割合がきわめて高く、また、90年以降は、ドル安というより円の独歩高が続いたためであろう。
これらの指標のうち単位労働コストについて見てみよう。単位労働コストは、91~95年の間、自国通貨(円)ベースの上昇率(ベース・アップなどによる通常の上昇率)は6~7%でアメリカとあまり差がないのに、これを実効為替レートではじくと5年間の上昇はきわめて大幅である。
このように単位労働コストが対外的には大幅に上昇したことが、「産業空洞化」を過度に進めるとともに、円高による「輸入価格の低下→デフレ圧力」との間で大きな矛盾となった。輸入価格の低下によるデフレ圧力がある一方で、海外の産業との価格競争力を左右する実効為替レートでの労働コストが上昇した。これでは製造業部門は立ち行かない。労働コストの安定がインフレの芽を摘むという好循環を呼んだアメリカの場合とは対照的である。
この不況の原因は、じつは複雑である。金融機関の不良債権問題のみが声高に叫ばれたのは、その解決が急がれたという意味では正論であろうが、そればかりが強調されては不況の全体像を捉え損ねることにもなりかねない。
不良債権問題それ自体が、プラザ合意後の対米協調金利政策の結果であることはこれまでに見てきたとおりだが、ここで強調しなければならないのは、アメリカの円高誘導策が平成不況に及ぼした直接的な影響についてである。
まず、これをモノ作り部門について見てみよう。バブル崩壊のもとでの円高の進行は、アメリカの好況のちょうど裏返しの影響を日本経済に与えたといえる。その中心的経路は、製造業との関連では次のように整理される。
「円高→輸出減・輸入増→鉱工業生産の低下→労働生産性の停滞→単位労働コストの底上げ」さらに実効レートによる円高の程度がドル安のそれより大きかったことが、その影響をはるかに強烈なものとした。先にアメリカのドルについて見た為替の実効レートは、円の場合、95年には90年に対し約4割も上昇している。これは、主要貿易相手国としてアメリカの占める割合がきわめて高く、また、90年以降は、ドル安というより円の独歩高が続いたためであろう。
これらの指標のうち単位労働コストについて見てみよう。単位労働コストは、91~95年の間、自国通貨(円)ベースの上昇率(ベース・アップなどによる通常の上昇率)は6~7%でアメリカとあまり差がないのに、これを実効為替レートではじくと5年間の上昇はきわめて大幅である。
このように単位労働コストが対外的には大幅に上昇したことが、「産業空洞化」を過度に進めるとともに、円高による「輸入価格の低下→デフレ圧力」との間で大きな矛盾となった。輸入価格の低下によるデフレ圧力がある一方で、海外の産業との価格競争力を左右する実効為替レートでの労働コストが上昇した。これでは製造業部門は立ち行かない。労働コストの安定がインフレの芽を摘むという好循環を呼んだアメリカの場合とは対照的である。
2015年1月22日木曜日
地価と競争力
バブル経済の時代、土地についてはどうだったか。大都市圏の地価は、80年代半ばまで、名目GNPをやや上回る程度の上昇たった。ところが85年以降、株式にやや遅れて90年にピークをつけるまで、この趨勢を大きく突き破る急騰を続けた。この問の土地の累積キャピタル・ゲインは、株式のそれを大きく上回る1420兆円、90年のGNPの3.3倍に達する規模となっている。
このように、株式と連動した地価のに」昇も、アメリカから見れば問題があるように思われた。80年代末の時点で、日本の土地は国富総額の約70%を占めるにいたったが、アメリカでは約25%にすぎない。
土地に対する感覚は大陸国家のアメリカと島国の日本では当然異なり、こうした資産構成の差は基本的には国内問題である。ところが、日本の土地資産額(90年末で2400兆円、国民経済計算による推計値)がアメリカ全土の土地資産額の約4倍に相当するということになると、アメリカとしてもこれを見過ごすことはできなかった。
土地の含み益もまた、企業の競争力にがらんでくる。日本では株式と同様、土地についても法人については相続税がなく、個人に対し法人の土地保有が進みやすい。また社歴の古い企業ほど大きな土地の評価益を擁しており、しかもこれが80年代を通じて急激に膨張した。
かつては日米問で企業の競争力をめぐる論争が起きると、目木側は、短期の業績に縛られたアメリカ企業の経営の欠陥をついておればよかった。ところが、80年代末にもなると、アメリカの短期業績主義への批判は、ただちに日本企業が擁する種々の経営上の「クッション」に対する批判となって返ってくるようになった。地価の高騰も求だ、アメリカ企業からみれば、彼らの主張する「平等な競争条件」に反するわけである。
89年には日本異質論者の一人として知られるジェームズ・フアローズが、具体的方法は明らかにしなかったが、「日本封じ込め」を主張していた。冷戦構造の崩壊により、日本は「悪の帝国」ソ連に代わる経済的脅威として認識されるようになった。
この言い古された論評の当否はともかく、ワシントン、それも議会というより、財務省において、日本のバブルを「諸悪の根源」とする判断が形成されていったことを、種々の状況証拠は示しているようである。
このように、株式と連動した地価のに」昇も、アメリカから見れば問題があるように思われた。80年代末の時点で、日本の土地は国富総額の約70%を占めるにいたったが、アメリカでは約25%にすぎない。
土地に対する感覚は大陸国家のアメリカと島国の日本では当然異なり、こうした資産構成の差は基本的には国内問題である。ところが、日本の土地資産額(90年末で2400兆円、国民経済計算による推計値)がアメリカ全土の土地資産額の約4倍に相当するということになると、アメリカとしてもこれを見過ごすことはできなかった。
土地の含み益もまた、企業の競争力にがらんでくる。日本では株式と同様、土地についても法人については相続税がなく、個人に対し法人の土地保有が進みやすい。また社歴の古い企業ほど大きな土地の評価益を擁しており、しかもこれが80年代を通じて急激に膨張した。
かつては日米問で企業の競争力をめぐる論争が起きると、目木側は、短期の業績に縛られたアメリカ企業の経営の欠陥をついておればよかった。ところが、80年代末にもなると、アメリカの短期業績主義への批判は、ただちに日本企業が擁する種々の経営上の「クッション」に対する批判となって返ってくるようになった。地価の高騰も求だ、アメリカ企業からみれば、彼らの主張する「平等な競争条件」に反するわけである。
89年には日本異質論者の一人として知られるジェームズ・フアローズが、具体的方法は明らかにしなかったが、「日本封じ込め」を主張していた。冷戦構造の崩壊により、日本は「悪の帝国」ソ連に代わる経済的脅威として認識されるようになった。
この言い古された論評の当否はともかく、ワシントン、それも議会というより、財務省において、日本のバブルを「諸悪の根源」とする判断が形成されていったことを、種々の状況証拠は示しているようである。
2014年12月19日金曜日
大阪の新歌舞伎座
菊田先生は芸術家ですから、私の気持ちをわかっていて下さった。それで、記者会見の席で「何かどうだとは僕も言えないのですが、とにかく駄目になりました。富士子さんごめんなさい」とおっしゃった。私はもう、涙があふれて居たたまれなくなって、お化粧室に駆け込みました。映画会社としては、「契約が切れていても、育てた女優が離れていくのは面白くない。後の示しもつかない」ということだったと思います。それは、私にもわからないわけではありませんでした。参議院法務委員会の議員さんが、「人権侵害で問題にする」とおっしゃって下さったり、日本映画俳優協会の事情聴取も受けました。作家の舟橋聖一先生など、ずいぶん多くの方が「間に立とう」とおっしやって下さいました。
でも、間に立って下さるということは、私かおわびして大映に戻るということです。私は、自分の心に忠実に、苦しくてもフリーの道を選びました。時代は間もなく変わり、日本映画も斜陽になり始めました。つらい思いもしましたが、今では、私を育ててくれた大映に感謝と懐かしさを感じるだけです。何百回も再演重ねて気付くものもある。五社協定の問題で映画界から締め出されかかって、「もう女優をやめよう」と思ったこともありました。そんな時、TBSの石井ふく子プロデューサーが声をかけて下さった。私はテレビのお話も壊れると思ったのですが、ふく子さんは、「テレビはこれからの世界だから、そんなことあるはずない」と言い切って下さった。
それで実現したのが、六三年七月に放送された東芝日曜劇場「明治の女」です。先代の松本幸四郎(白鸚)さんとの共演でした。ふく子さんに聞くと24・5%という大変な視聴率になったそうで、私の家の電話までしばらく鳴りやみませんでした。「皆さんがこんなに励まして下さる。もう一度、女優として頑張ってみよう」と新たな思いがわき上がってきました。その後、たくさんのテレビドラマをやるようになり、フジテレビには「山本富士子アワー」という枠を持たせて頂きました。その中で六四年一月の「にごりえ」は34・2%の視聴率になり、第一回ギャラクシー賞に選ばれました。
舞台に立ったのは六四年四月、大阪の新歌舞伎座でした。松本幸四郎さんとの共演で「明治の女」「千姫御殿」「大石最後の一日」が実現しました。六月には東京宝塚劇場でも「新作国姓爺」と「花と七首」を公演して、五社協定の影も消えていきます。前年の暮れ、新歌舞伎座の松尾国三会長の奥さまのチャリティーパーティーに呼ばれました。会場で「富士子さん、一体どうなっているの。主人もお話を聞きたがっているから、一度いらっしゃい」と声をかけて下さったのです。
ご自宅に伺い、それまでのいきさつをお話ししたら、松尾会長は「わかった」とおっしゃって。「舞台をやりなさい。それも最初から大舞台で。だけど、東京では刺激が強いから、大阪で初舞台を踏んで、それから東京でやりなさい」と道を作って下さった。初舞台から歌舞伎の大看板の方たちとご一緒するのは、大変でした。でも、この壁も乗り越えなくてはいけない。ずいぷんと勉強になりました。映画もテレビ、舞台も、役柄をつかむということでは同じだと思います。ただ舞台は、いざ出てしまうとアップも引きも全部、自分で工夫しなくてはなりません。感性だけでは処理できないものがあり、どうしても場数を踏んで覚えなくてはなりません。
でも、間に立って下さるということは、私かおわびして大映に戻るということです。私は、自分の心に忠実に、苦しくてもフリーの道を選びました。時代は間もなく変わり、日本映画も斜陽になり始めました。つらい思いもしましたが、今では、私を育ててくれた大映に感謝と懐かしさを感じるだけです。何百回も再演重ねて気付くものもある。五社協定の問題で映画界から締め出されかかって、「もう女優をやめよう」と思ったこともありました。そんな時、TBSの石井ふく子プロデューサーが声をかけて下さった。私はテレビのお話も壊れると思ったのですが、ふく子さんは、「テレビはこれからの世界だから、そんなことあるはずない」と言い切って下さった。
それで実現したのが、六三年七月に放送された東芝日曜劇場「明治の女」です。先代の松本幸四郎(白鸚)さんとの共演でした。ふく子さんに聞くと24・5%という大変な視聴率になったそうで、私の家の電話までしばらく鳴りやみませんでした。「皆さんがこんなに励まして下さる。もう一度、女優として頑張ってみよう」と新たな思いがわき上がってきました。その後、たくさんのテレビドラマをやるようになり、フジテレビには「山本富士子アワー」という枠を持たせて頂きました。その中で六四年一月の「にごりえ」は34・2%の視聴率になり、第一回ギャラクシー賞に選ばれました。
舞台に立ったのは六四年四月、大阪の新歌舞伎座でした。松本幸四郎さんとの共演で「明治の女」「千姫御殿」「大石最後の一日」が実現しました。六月には東京宝塚劇場でも「新作国姓爺」と「花と七首」を公演して、五社協定の影も消えていきます。前年の暮れ、新歌舞伎座の松尾国三会長の奥さまのチャリティーパーティーに呼ばれました。会場で「富士子さん、一体どうなっているの。主人もお話を聞きたがっているから、一度いらっしゃい」と声をかけて下さったのです。
ご自宅に伺い、それまでのいきさつをお話ししたら、松尾会長は「わかった」とおっしゃって。「舞台をやりなさい。それも最初から大舞台で。だけど、東京では刺激が強いから、大阪で初舞台を踏んで、それから東京でやりなさい」と道を作って下さった。初舞台から歌舞伎の大看板の方たちとご一緒するのは、大変でした。でも、この壁も乗り越えなくてはいけない。ずいぷんと勉強になりました。映画もテレビ、舞台も、役柄をつかむということでは同じだと思います。ただ舞台は、いざ出てしまうとアップも引きも全部、自分で工夫しなくてはなりません。感性だけでは処理できないものがあり、どうしても場数を踏んで覚えなくてはなりません。
2014年11月19日水曜日
パブリックコメントの有効活用
その後、私は、機会あるごとに、この品確法の立法・運営等に関与している弁護士たちに、床の傾きの基準のことなどを尋ねてみました。しかし、「業者に建て直しなどを強制しないため」という以外には、特筆すべき説明をまだ聞いていません。この説明では、「現状を維持すべきだから欠陥でないことにしよう」と言っているのと同じではないでしょうか。
こんなことでは安心して家に住むこともできません。このほか、建築紛争に関する新しい手続についても、紛争案件を審査する合議体(住宅紛争審査会)に消費者を入れるかどうかという問題がありました。しかし、ひとくちに消費者といっても「その概念が明確でない」といった理由なとがら、審査する側に入ることは認められませんでした。
その他、いろいろな都合で使い勝手の良くない形になってしまった住宅紛争審査会は、ほとんど開店休業状態と聞きます。欠陥住宅を裁くために作られた制度の方に大きな欠陥があったというのでは、シャレにもなりません。
最近でこそ、パブリックコメントの制度が普及し、一般の人々も多少は、インターネットを通じて立法に関する意見をメールで送れます。ただ、市民らの意見はほとんど影響力かおりません。あまりにも無関心な人が多すぎるのも問題です。
本当は政治家の仕事なのに、政治家は政治家でお葬式などに出るのに忙しくて、それどころでないのかもしれません。いずれにしても、あれやこれやの事情で、法律の作成において、消費者団体等の意見は多少は入ることもありますが、大体は業界主導で決まってしまいます。
こんなことでは安心して家に住むこともできません。このほか、建築紛争に関する新しい手続についても、紛争案件を審査する合議体(住宅紛争審査会)に消費者を入れるかどうかという問題がありました。しかし、ひとくちに消費者といっても「その概念が明確でない」といった理由なとがら、審査する側に入ることは認められませんでした。
その他、いろいろな都合で使い勝手の良くない形になってしまった住宅紛争審査会は、ほとんど開店休業状態と聞きます。欠陥住宅を裁くために作られた制度の方に大きな欠陥があったというのでは、シャレにもなりません。
最近でこそ、パブリックコメントの制度が普及し、一般の人々も多少は、インターネットを通じて立法に関する意見をメールで送れます。ただ、市民らの意見はほとんど影響力かおりません。あまりにも無関心な人が多すぎるのも問題です。
本当は政治家の仕事なのに、政治家は政治家でお葬式などに出るのに忙しくて、それどころでないのかもしれません。いずれにしても、あれやこれやの事情で、法律の作成において、消費者団体等の意見は多少は入ることもありますが、大体は業界主導で決まってしまいます。
2014年10月18日土曜日
「ITによる人間疎外」
情報ビジネスの裾野を広げる、重厚長大型を含めた旧来の産業の再生を進める、外出が思うにまかせなくなった高齢者の日常生活の必要を満たす。
これらのすべてを目指して、「ヤング」より中高年、新興・ハイテク企業より既存の伝統産業にITの浸透を図ることが、情報化戦略の重要な部分を占めていなければならない。何より、モノ造り産業の国際競争力をITによって回復・強化することは、日本の雇用と活力にとって死活の意味を持つ。
世界的規模で情報化が進んでいくのと並行して、世界的規模で「情報格差」が広がっている。その落差は、熟練がものをいった製造業が産業界をリードしていた時期と比べて、情報化時代にはより深刻な、乗り越え難いものになっていく恐れもある。
「ITによる人間疎外」を生まないための「中高年向けパソコン・インターネット講座」などにも、国と地方自治体が力を入れるべきだろう。情報化教育は、幼稚園にまでさかのぼって考えられねばなるまい。自閉的になりがちなコンピューターゲームにのみ閉じこもることのないように、またゲーム機の家庭への浸透以前から進んでいる活字離れ、読解力不足に対処することも、ITを人間形成に関わるものとして活用するうえで、不可欠のことだろう。
これに関連することとしていえば、日本語の最大の長所である漢字・仮名書き文を、高度化したITで使いやすいものにしていく必要もある。IT革命は、書籍やパソコンなどの情報機器の商取引ではすでに身近なものとなっている。間もなく金融、証券取引へ、さらに米国の先例からすれば、税務申告、そして選挙の投票などにも及んでいくだろう。
重要なのはこうした「表」の技術を、側面、裏面で支えるさまざまなシステムである。多くの部分でとりあえず米国に追随せざるを得ないとしても、情報化の負の要素に対する目配りも含めて、これこそ米国にならって総合戦略を立てねばならない。
コンピュータ誤作動の「二〇〇〇年問題」のように、米国流のデータ仕様にならったことで世界中が巨額の無駄遣いをしたという悪例もある。こうした事態への対応も含めて、総合戦略は不可欠である。
これらのすべてを目指して、「ヤング」より中高年、新興・ハイテク企業より既存の伝統産業にITの浸透を図ることが、情報化戦略の重要な部分を占めていなければならない。何より、モノ造り産業の国際競争力をITによって回復・強化することは、日本の雇用と活力にとって死活の意味を持つ。
世界的規模で情報化が進んでいくのと並行して、世界的規模で「情報格差」が広がっている。その落差は、熟練がものをいった製造業が産業界をリードしていた時期と比べて、情報化時代にはより深刻な、乗り越え難いものになっていく恐れもある。
「ITによる人間疎外」を生まないための「中高年向けパソコン・インターネット講座」などにも、国と地方自治体が力を入れるべきだろう。情報化教育は、幼稚園にまでさかのぼって考えられねばなるまい。自閉的になりがちなコンピューターゲームにのみ閉じこもることのないように、またゲーム機の家庭への浸透以前から進んでいる活字離れ、読解力不足に対処することも、ITを人間形成に関わるものとして活用するうえで、不可欠のことだろう。
これに関連することとしていえば、日本語の最大の長所である漢字・仮名書き文を、高度化したITで使いやすいものにしていく必要もある。IT革命は、書籍やパソコンなどの情報機器の商取引ではすでに身近なものとなっている。間もなく金融、証券取引へ、さらに米国の先例からすれば、税務申告、そして選挙の投票などにも及んでいくだろう。
重要なのはこうした「表」の技術を、側面、裏面で支えるさまざまなシステムである。多くの部分でとりあえず米国に追随せざるを得ないとしても、情報化の負の要素に対する目配りも含めて、これこそ米国にならって総合戦略を立てねばならない。
コンピュータ誤作動の「二〇〇〇年問題」のように、米国流のデータ仕様にならったことで世界中が巨額の無駄遣いをしたという悪例もある。こうした事態への対応も含めて、総合戦略は不可欠である。
2014年9月18日木曜日
問題の根源はユタの存在
キャンペーンは一九八〇年正月から始めた。「うちな女男」というタイトルで、連載開始直後から「トートーメー」に絞って連日、記事を掲載した。最初に沖縄が揺れるほど、と書いたが、私は本当に島が揺れていると感じた。記事を載せたその日の朝から、社の電話が鳴り止まなかった。「この日を待っていました」「新聞でうんと取り上げてください」。ほとんどが女性からで、電話の向こうで泣いている人も多かった。電話、手紙が新聞社に殺到した。男性からもあった。かつて経験したことがないような、一大反響が沸き起こった。ガスが目いっぱい充満した部屋にマッチの火がつき、大爆発を起こしたようなそんな状態がかなり長く続いた。
電話や手紙でこんな声が新聞社に連日届いた。「私には一人娘(小学生)がいます。生まれてからずっといっしょに住んでおり、この子も『お母さん、わたし大きくなったら結婚して男の子とお母さんといるよ』つていうんですよネ。どうして実の娘がいるのに遠い親戚から養子をもらって跡を継がさねばならないんでしょうか。一生懸命財産をつくっても、とんでもない人に財産をあげなければならないんでしょうか」(五十代の主婦、浦添市)「私たちには五人の娘があります。もちろん男の子が欲しかったのですが、運悪く全部娘だけです。でも私たちは五人の娘の中から一人はトートーメーを持ってもらおうと思っておりました。
ところが門中(始祖を共通にする父系の血縁集団)と称する親戚から待ったがかかった。トートーメーは女が持つと崇りがあるというのです。それからというものは毎日、門中ぜんぶからそろって説教です。揚句の果てには『私のところにも娘がいる(いかず後家)、二号にしてよいから、男の子を娘に産ませろ』という親戚まで出る始末です」(T・I、具志川市)予想をはるかに超える数であり、深刻さであった。禁忌を守らないとよくないことが起こる、崇りがある、と巷間、伝播の役を果たしていたのが、沖縄で「ユタ」といわれるシャーマン、霊的な能力を持つ人たちであることも問題を表面化しにくくしていた。
易者とも違って、特殊な霊力を持つといわれるユタがそういうのだから、と多くの人がトートーメーにまつわる慣習を守ってきたのである。問題の根源はユタの存在、という声も多かった。ユタは表には出ない存在である。依頼者の内面の相談に乗って生計を立ててはいるが、看板などどこにもない。だから分からない人にはまったく分からない。もちろんユタを信じず、関わりを持たずに生きている人も大勢いる。とはいえ、ユタが人の生死、生き方に深く関わっており、沖縄の裏の文化の重要な役割を担っていることは厳然たる事実だ。葬式などは沖縄でもお坊さんがことを進めてくれるが、葬式も含め、お坊さんと同じぐらいかそれ以上に大きな影響力を持っているのがユタである。
沖縄では、警察など時の権力がユタを弾圧した歴史があり、それでも現在、三千人とも四千人ともいわれるユタがいる。それはそれだけの理由があるからである。ユタのところに行き(沖縄ではユタを買うという)、ユタの判示を聞き、それを受け入れることによって心の安らぎを得て生きている人もまた非常に多い。沖縄ではユタは身近なカウンセラーの役目も果たしている。私はユタを直接、訪ねて取材もした。どういう場所でどんなことをしているのか、様子を見に行ったのである。目の前の女性はごく普通の人だった。新聞記者です、と名乗ってから取材を始めたが、しばらくすると、私の顔つきや言葉遣いがどうも変だと思ったのであろう、「あんたはどこの人ね」と聞いてきた。
電話や手紙でこんな声が新聞社に連日届いた。「私には一人娘(小学生)がいます。生まれてからずっといっしょに住んでおり、この子も『お母さん、わたし大きくなったら結婚して男の子とお母さんといるよ』つていうんですよネ。どうして実の娘がいるのに遠い親戚から養子をもらって跡を継がさねばならないんでしょうか。一生懸命財産をつくっても、とんでもない人に財産をあげなければならないんでしょうか」(五十代の主婦、浦添市)「私たちには五人の娘があります。もちろん男の子が欲しかったのですが、運悪く全部娘だけです。でも私たちは五人の娘の中から一人はトートーメーを持ってもらおうと思っておりました。
ところが門中(始祖を共通にする父系の血縁集団)と称する親戚から待ったがかかった。トートーメーは女が持つと崇りがあるというのです。それからというものは毎日、門中ぜんぶからそろって説教です。揚句の果てには『私のところにも娘がいる(いかず後家)、二号にしてよいから、男の子を娘に産ませろ』という親戚まで出る始末です」(T・I、具志川市)予想をはるかに超える数であり、深刻さであった。禁忌を守らないとよくないことが起こる、崇りがある、と巷間、伝播の役を果たしていたのが、沖縄で「ユタ」といわれるシャーマン、霊的な能力を持つ人たちであることも問題を表面化しにくくしていた。
易者とも違って、特殊な霊力を持つといわれるユタがそういうのだから、と多くの人がトートーメーにまつわる慣習を守ってきたのである。問題の根源はユタの存在、という声も多かった。ユタは表には出ない存在である。依頼者の内面の相談に乗って生計を立ててはいるが、看板などどこにもない。だから分からない人にはまったく分からない。もちろんユタを信じず、関わりを持たずに生きている人も大勢いる。とはいえ、ユタが人の生死、生き方に深く関わっており、沖縄の裏の文化の重要な役割を担っていることは厳然たる事実だ。葬式などは沖縄でもお坊さんがことを進めてくれるが、葬式も含め、お坊さんと同じぐらいかそれ以上に大きな影響力を持っているのがユタである。
沖縄では、警察など時の権力がユタを弾圧した歴史があり、それでも現在、三千人とも四千人ともいわれるユタがいる。それはそれだけの理由があるからである。ユタのところに行き(沖縄ではユタを買うという)、ユタの判示を聞き、それを受け入れることによって心の安らぎを得て生きている人もまた非常に多い。沖縄ではユタは身近なカウンセラーの役目も果たしている。私はユタを直接、訪ねて取材もした。どういう場所でどんなことをしているのか、様子を見に行ったのである。目の前の女性はごく普通の人だった。新聞記者です、と名乗ってから取材を始めたが、しばらくすると、私の顔つきや言葉遣いがどうも変だと思ったのであろう、「あんたはどこの人ね」と聞いてきた。
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