2015年7月20日月曜日

富の源泉は労働生産性

今回、『国富論』を全訳(山岡訳)で初めて読んで、学生のころ中央公論版の抄訳で読んだときと違う意味で、おもしろい本だと感じました。それは今、日本が直面している問題が、この本に書かれている近代的個人と古い社会の闘いと似た部分があるからです。なぜイギリスで産業革命が起こったのかというのは経済史上の大問題で、いろいろな説があります。有名なのはマルクスの本源的蓄積とかウェーバーのプロテスタンティズムですが、今の実証的な経済史では問題にならない。では、何か西洋近代の成長の原因だったのか。いまだに決定的なことはわからないのですが、その一つとして考えられるのが「有用な知識」だと経済史家のジョエルーモキアは最近の本で書いています。

知識というのは、伝統的に役に立ってはいけないと思われていました。典型的なのが神学です。産業革命の一つの原因は、それまで職人の経験的な知識だった技術が、科学という体系的な学問と結びつくことによって、飛躍的に効率が上がったことにあります。そのとき学問が特殊な聖職者のものではなく、世俗的な「有用な知識」として普通の企業家の使えるものになることが重要でした。それが啓蒙思想の果たした役割です。啓蒙思想の中心的な古典で、原題はそのまま訳すと『諸国の富の性質と原因についての研究』です。「諸国民の富」と訳す場合もありますが、内容的には、どの国がどういう政策をとると豊かになるかという「比較政策論」という感じです。

イギリスがあり、フランスがあり、オランダがあり、いろんな国がいろんな政策をとっているが、イギリスの自由主義経済がいちばんいいんだという話なので、Nationsは「諸国」と訳したほうがいいと思います。最近の言葉でいうと、「成長戦略」です。スミスが何を言おうとしているかというと、富の源泉は労働だというわけです。単なる労働は昔からあるわけですが、労働者がいかに能率よく労働するか最近の言葉でいえば労働生産性が大切なんだと。これは現代の日本でも大事なことを言っていると思います。これから日本の労働人口がどんどん減っていくわけで、労働人口が減っているときに富を維持しようと思ったら、労働生産性を上げるしかない。そういう意味で『国富論』を労働生産性という観点から読み直してみることも意味があると思います。

では、なぜ労働生産性が上がったのか。近代以前の社会と近代社会を比べて何がいちばんの大きな違いかというときに、スミスが言ったのは「分業」です。ピンを一人で作ったら一日二〇個しか作れないが、一〇人で一八の工程で作ったら四万八〇〇〇個作れたという有名な寓話です。昔の社会では分業がなくて、すべての集落が自給自足で、いろいろなものを一人でつくっていた。そうすると農業の得意な人が武器をつくってもいいものができない。それより農業に専念して、余った農産物を武器と交換したほうがいい。この場合の分業は、単に手分けしてやるということではなくて、できたものを市場で交換することと一体になっているわけです。

ただ分業の話は前置きで、『国富論』全体を読むと圧倒的に重点が置かれているのは、重商主義の批判と自由貿易の擁護です。学問的な書き方ですが、ある種の政治的プロパガンダです。イギリスがいちばん進んでいる、遅れている他の国は農業を保護するとか関税をかけるとかやっているから遅れるのだ、という話です。『国富論』は一般的に経済を語っているのではなく、重商主義を批判する宣伝文書なのです。重商主義というと昔の話だと思う人が多いでしょうが、いつの時代にも出てくるのです。この前、中野剛志という経済産業省から京都大学に出向している若い官僚が、TPP(環太平洋パートナーシップ)を批判しているのを見ました。その理由は「TPPの参加国はアメリカ以外は小国ばかりで、実態はアメリカとの自由貿易協定だ」という。