2015年12月18日金曜日

アイデンティティの防御

アイデンティティが透明なるがゆえのアイデンティティ不確実感は日本と日本人の「もろさ」へと直結する。これが日本人に盲目的なナショナリズムと「妄想」を生む土台となるからである。それゆえ、これについては後で詳しく論じることにする。

加えて、日本と日本人のアイデンティティの透明性は、それが「作為の法則」によってではなく、「自然の法則」によって形成されたものである、という点にも注意を払うべきである。

日本と日本人のアイデンティティの透明性は日本海という「天然の防壁」によって形成されたものだからである。まさにこの点で、要塞文明が持つ「作為の法則」によって生まれた人工国家アメリカと好対照をなしている。

だが、日本と日本人のアイデンティティの透明性は「自然の法則」によって生まれたために、「防御」に対する脆弱さという「もろさ」を原理的に抱えている。日本の無常感文明は、要塞文明と対峙した際に、押しまくられてなす術がない状態へと陥りやすいのである。

この点、「作為の法則」から生まれたアメリカが、常に自分たちのアイデンティティをどう維持してゆくかに自覚的にならざるをえないがゆえに、アイデンティティの防御に長けているのと好対照をなしている。

日本人の自我のひ弱さから文明のアイデンティティに至るまで、「防御」に対する脆弱さもまた日本文明の抱える「もろさ」の一つである。したがって、これについても後であらためて論じることにする。

2015年11月19日木曜日

国民の生命と財産の守りを強化するという発想

無常感こそが、古代より今日までわが国に「防御」やダメージ・コントロールの思想をなかなか根づかせなかった根源なのである。西欧の童話『三匹の子豚』の話にあるように、「石の家」がオオカミの攻撃に対してもっとも防御力がある。オオカミとは平時における災害、有事における戦争のことである。西欧ではすでに古代ローマの時代から火事に弱い木造建築を禁止し、広場を造り、道路を広く取って火事に強い都市造りをはじめている。むろん広場は有事には兵士の集合場所となる。

公園も同様である。西欧では堅固な城壁を築いて戦争に備えるだけでなく、災害にも強い都市造りを古代から「作為的に」行なっているのである。これが要塞文明なのである。ところがわが国では室町時代あたりから都市が造られたのだが、そのオオカミに対する脆弱さは今日に至るも解消されたとは言い難い。江戸の密集した木造家屋はたびたび大地震や大火で灰燈に帰したし、関東大震災も同様であった。

日本の軍部は英米との戦争に備えて戦艦大和は造ったが、このもろく燃えやすい密集した木造家屋群をどうにかしよう、などという「防御」の発想は露ほども持たなかった。そこをアメリカ軍に突かれて、焼夷弾攻撃によって日本の都市は大損害をこうむったのである。日本の軍部は「攻撃は最良の防御なり」などといって攻撃力の強化や戦線の拡大ばかりに熱心で、日本に堅固な防災兼防御都市を造ることで、肝心要の国民の生命と財産の守りを強化する、という発想が皆無だったのである。

2015年10月19日月曜日

ひろい視野での優先順位の見直し

また保険料は均一とするのか、所得状況を付加するのか。構想では、家庭内介護には保険からの支払いを行わないようであるが、家族の「犠牲」をそのまま放置するのか。家庭内介護者が介護保険料を支払いつつ、他方で自らの生活を犠牲として介護に従事すること自体、大きな矛盾ではないのか。あるいはまた、老齢年金受給者からも保険料の徴収が構想されているが、すでにみた年金の給付状況では、高齢者に保険が機能するほどの保険料支払能力があるのだろうか。

さらに、国と自治体による介護保険制度への財政援助も構想されているが、保険である以上、事業経営主体である保険者を誰にするのか。国保と同様に市町村とする意見もあるが、その場合には、再論するまでもなく保険として機能する条件は、はじめからきわめて限定されていよう。国による一元的保険あるいは都道府県を単位とする広域保険とするばあい、基本的に保険料徴収基準は画一的となるだろう。

その時、地域間における公的介護施設や在宅サービスの水準の格差をどうするのか。それは医療保険における施設や医師などのヒューマンーパワーの格差以上に、深刻な実施上の問題となるだろう。ここに指摘したような疑問は、厚生省の関連諮問機関および厚生官僚制内部から、説得力あるプランとして、なにひとつ示されていない。細部を明らかにしないまま「ドイツに続け」(九五年から導入)では、あまりにも拙速である。

介護保険制度が、内部の細かい議論をはぶいたまま実現に向かって動き出そうとしている。その背後には、「消費税の増税装置」との見方もくすぶっている。なぜならば、介護保険制度を導入する時、いずれにしても国庫負担は避けられないし、増加していかざるをえない。それは大蔵省のねらう消費税の税率引き上げに正当性を与える。しかし、消費税率が引き上げられても、介護保険基盤の安定のための国庫支出金が増える保証はない。

深刻な高齢化の進行は、国民所得にしめる租税・社会保障費負担の増加を避けて通ることはできまい。だからこそ、特定政策分野に視野を限定した「粗雑」な費用負担制度を、構想してはならないのである。消費税を「益税」などという言葉が生じないような付加価値税に改めるのは当然として、予算の優先順位を全体として見直し、高齢化社会における市民生活の安定のための予算政策が、考えられなくてはなるまい。前節でみたような公共事業予算の構造をそのままにしておいて、財源難の解決を増税ないし新たな社会保障負担に求めても、納税者の理解を得るのは難しい。高齢化社会における予算政策は、日本の政治にとって「未知」の世界である。それだけに政治の責任と創造力が試されている。

2015年9月18日金曜日

日本列島の自然環境

都市の生活空間に影響を与える自然環境について考える場合も、いちおう当てぱめることができよう。事実、都市生態学という分野では、そうした手法にもとづく研究が積み重ねられている。つまり、自然生態系を考察するさいの、方法上のアナロジーによって。都市生態系”を科学的に把握しようとするものであり、生態学の応用分野として位置づけられている。

しかし、都市生態系が自然生態系と多くの点で共通性をもちながらも、やはり基本的に異なっているのは、環境に対する人間(都市生活者)の主体的な働きかけが重要な要因をなしているという事実であろう。要するに、都市に影響を及ぼす自然環境についても、さまざまな人工物や人間の諸活動にともなうリアクションとともに、都市空間独特の自然的環境が醸成されるようになっていくのである。ここから、都市のアメニティをめぐる問題が、特別の色彩をもって浮かび上がることにもなるわけである。

ところで、都市の自然環境について述べるまえに、日本全体の自然にかんする特徴をざっと見ておこう。日本の自然環境には、いくつかの際立った特色があることが知られている。第一に、日本列島は気候分布上、温帯に属しながら気温の年格差が大きく、冬はより寒く、夏はより暑い。しかも、季節風に位置する日本列島は、冬季にはシベリアからの冷たい気流が流れ込み、夏季には南方洋上から湿った暖かい気流が押し寄せるため、寒暖の差がいっそう大きくなる傾向を見せる。

そのため、植物相も、北方寒地系と南方暖地系の植物が入り混じり、独特の群落と景観をかたちづくっている。第二に、降水量が非常に多い。日本の降水量は年平均一七〇〇ミリだが、これは世界の年平均降水量七五〇~一〇〇〇ミリのほぼ二倍に相当する。とはいうものの、その降水量は地域によって相当の開きがあり、北海道の一部や信州、瀬戸内沿岸部などは、年間降水量がー○○ミリにも満たない。ところが、琉球列島-九州-四国-紀伊半島-東海地方などの太平洋沿岸部と、逆に北陸-東北にいたる日本海沿岸部では、二四〇〇ミリを超える降水地域が広がっているという具合である。

2015年8月25日火曜日

アメリカ企業の活況

それによると、第一は、八〇年代に行ったコンピューターと情報技術への巨大投資が実を結んだこと(一人当たりで世界平均の八倍)、第二に、金融の多様化とブームである。後者は規制撤廃によって、高収益性を挙げるような好パフォーマンスの新金融商品が続々と登場することによって、中産階層の貯蓄投資先の選択肢を広げた。これら二つの要因に加えて、「透明な企業情報」の存在をザ″カーマンは強調する。かれがアメリカの金融システムをきわめ工局く評価するのは、そのディスクロージャーの故である。さしずめ、キーワードは情報と金融であり、その二つのファクターを結びつけているのが透明性ということになる。

九〇年代、アメリカの株価が上昇し続けたのは、アメリカ企業、とりわけ情報通信産業や金融機関、あるいは自動車産業も消費者小売りも、さらにはミューチュアルーファンドやへでジファンドも、増収増益を謳歌する企業群が産業分野の違いをこえて出現したからである。そこで、世界企業番付からアメリカ企業の位置を確認しておきたい。代表的な企業番付である『フォーチュン』(98年8月3日)恒例の「世界大企業番付」では、九七年の売上高番付で、五〇〇社中アメリカ企業は一七五社を占めてトップで、二一社の日本企業を引き離している(ドイツ四二社、フランス三九社)。上位一〇社(売上局)では、五社が日本企業であり、米企業の四社より多いが、上位一〇傑に入る日本企業のすべてが総合商社(三位三井物産、四位三菱商事、六位伊藤忠、九位丸紅、一〇位住友商事)である。

ちなみに、この統計では、金融業も同列に分類されているが、銀行業の「売上高」とは金利収入と非金利収入(経費を差し引く前)を合計したものである。ただし、何を尺度として測るかによって企業番付は大きく異なる。利益額で見てみよう。上位はアメリカ企業の圧倒的独占である。上位八社は三位のロイヤルーダッチーシェルを除くと、すべてアメリカ企業で、一位エクソン、二位GE、四位インテル、五位フォードーモーター、六位GM、七位フィリップモリス、八位IBMとお馴染みの名前が続く。日本企業トップは、二一位トヨタ、五六位NTT、六〇位ホンダ、六二位日本生命、九五位第一生命。上位一〇〇社に入るのはこのわずか五社にすぎない(次は東京電力一四二位、明治生命一五二位)。

さらに、収益性では格差はもっと広がる。純益ノ収入比では、一位マイクロソフト、三位インテル、、純益/資産比では、二位インテル、三位マイクロソフト、四位デルーコンピューターと続く。ところが、収益性で上位五〇傑に日本企業は入っていない。収益性の上位に、コンピューター・ソフト会社が多いのは時代的特徴を反映したものだろう。興味深いのは、インテルの売上高番付が五位にすぎず、マイクロソフトに至っては四〇〇位に後退することである。ところが、純益/収入比となると、一位のマイクロソフトは三〇・四%、三位のインテルは二七・七%と高騰する。

それらと対照的なのが。日本の商社で、売上高では上位に並ぶ総合商社も、純益ではさっぱりである。いずれの総合商社も純益では二〇〇位以下に転落する(三井物産三三六位、三菱商事二八七位、伊藤忠四八四位、丸紅三八八位、住友商事三六〇位)。企業業績は売上高や純益だけではなく、当該企業が市場でどのように評価されたかが重要な指標になりつつある。そこで『ビジネスーウィーク』(98年7月13日)は、企業の株式時価総額番付を発表している。それによると、株式市場の好不調を反映して、日米の企業に大きな差が生じている(以下の株価のデータは、すべて九八年五月二九日の時点による)。

2015年7月20日月曜日

富の源泉は労働生産性

今回、『国富論』を全訳(山岡訳)で初めて読んで、学生のころ中央公論版の抄訳で読んだときと違う意味で、おもしろい本だと感じました。それは今、日本が直面している問題が、この本に書かれている近代的個人と古い社会の闘いと似た部分があるからです。なぜイギリスで産業革命が起こったのかというのは経済史上の大問題で、いろいろな説があります。有名なのはマルクスの本源的蓄積とかウェーバーのプロテスタンティズムですが、今の実証的な経済史では問題にならない。では、何か西洋近代の成長の原因だったのか。いまだに決定的なことはわからないのですが、その一つとして考えられるのが「有用な知識」だと経済史家のジョエルーモキアは最近の本で書いています。

知識というのは、伝統的に役に立ってはいけないと思われていました。典型的なのが神学です。産業革命の一つの原因は、それまで職人の経験的な知識だった技術が、科学という体系的な学問と結びつくことによって、飛躍的に効率が上がったことにあります。そのとき学問が特殊な聖職者のものではなく、世俗的な「有用な知識」として普通の企業家の使えるものになることが重要でした。それが啓蒙思想の果たした役割です。啓蒙思想の中心的な古典で、原題はそのまま訳すと『諸国の富の性質と原因についての研究』です。「諸国民の富」と訳す場合もありますが、内容的には、どの国がどういう政策をとると豊かになるかという「比較政策論」という感じです。

イギリスがあり、フランスがあり、オランダがあり、いろんな国がいろんな政策をとっているが、イギリスの自由主義経済がいちばんいいんだという話なので、Nationsは「諸国」と訳したほうがいいと思います。最近の言葉でいうと、「成長戦略」です。スミスが何を言おうとしているかというと、富の源泉は労働だというわけです。単なる労働は昔からあるわけですが、労働者がいかに能率よく労働するか最近の言葉でいえば労働生産性が大切なんだと。これは現代の日本でも大事なことを言っていると思います。これから日本の労働人口がどんどん減っていくわけで、労働人口が減っているときに富を維持しようと思ったら、労働生産性を上げるしかない。そういう意味で『国富論』を労働生産性という観点から読み直してみることも意味があると思います。

では、なぜ労働生産性が上がったのか。近代以前の社会と近代社会を比べて何がいちばんの大きな違いかというときに、スミスが言ったのは「分業」です。ピンを一人で作ったら一日二〇個しか作れないが、一〇人で一八の工程で作ったら四万八〇〇〇個作れたという有名な寓話です。昔の社会では分業がなくて、すべての集落が自給自足で、いろいろなものを一人でつくっていた。そうすると農業の得意な人が武器をつくってもいいものができない。それより農業に専念して、余った農産物を武器と交換したほうがいい。この場合の分業は、単に手分けしてやるということではなくて、できたものを市場で交換することと一体になっているわけです。

ただ分業の話は前置きで、『国富論』全体を読むと圧倒的に重点が置かれているのは、重商主義の批判と自由貿易の擁護です。学問的な書き方ですが、ある種の政治的プロパガンダです。イギリスがいちばん進んでいる、遅れている他の国は農業を保護するとか関税をかけるとかやっているから遅れるのだ、という話です。『国富論』は一般的に経済を語っているのではなく、重商主義を批判する宣伝文書なのです。重商主義というと昔の話だと思う人が多いでしょうが、いつの時代にも出てくるのです。この前、中野剛志という経済産業省から京都大学に出向している若い官僚が、TPP(環太平洋パートナーシップ)を批判しているのを見ました。その理由は「TPPの参加国はアメリカ以外は小国ばかりで、実態はアメリカとの自由貿易協定だ」という。

2015年6月18日木曜日

人的インフラストラクチャーの不足

輸送手段にしても、市場経済では中央集中型の鉄道輸送でなく、地方分散型のトラック輸送が主役だが、いまの東欧諸国には道路もトラックもない褐炭を使った火力発電所や西側の安全基準に遠く及ばない原子力発電所など東欧諸国の環境破壊の現状を見ると、生産を拡大するために新しい発電施設を作るより以前に、まず現存施設の安全対策に多額の投資をする必要がある。ドイツではすでに一一基ある東ドイツの原子力発電所のうち六基を閉鎖する決定が下された。だか、代わりの発電所を作る金はどこから出るのだろ

ソ連のように一種類の製品につき一ヵ所しか生産施設を持たない国が工場を非国有化すれば、独占企業がつぎつぎに誕生して価格をつり上げるのは目に見えている。価格競争のある市場を作るためには新しく工場を建設しなければならないが、そんな金はない。たとえ金があったとしても、新しい工場は一晩や二晩で作れるものではない。

農民たちも、資本主義農業への転換に二の足を踏んでいる。どこでトラクターを買えばいいのか、どこでガソリンを買えばいいのか、どこで種を買えばいいのか、見当もつかないのだ。作物が収穫できたとして、こんどはどうやって運べばいいのか、どこへ売りに行けばよいのか。農業器具を売る側も、あるいは農作物を買い取る側も、農民のほうから商売を持ちかけてくるまで動かない。みんな相手が最初の一歩を踏みだすのを待っている。最初に事を起こせば、かなりのコストがかかるし、まわりが同調しない危険性もある。結局、だれも最初に商売を始めようとしないのだ。
 
東欧の労働力は一応の教育水準に達しているものの、市場経済に適応するにはまだ足りないものがある。第一に勤労意欲が。旧共産圏諸国を訪れたことのある人なら誰でも気づくことだが、工場労働者の勤労意欲は非常に低い。ソ連ではやっていたジョークか理由をうまく言い当てている。「労働者は働くふりをするのさ。政府が給料を払うふりをするから」。働いても金にならないなら、誰も働く気にはなるまい。

これからは働けば金になるかもしれないか、生まれてこのかた共産主義経済の下でやってきた労働者たちには、一生懸命に働かない生き方が骨の髄まで染みこんでしまっている。ちゃんとしたインセンティヴを与えられれば、彼らもやる気を起こすだろうか?一所懸命働けばいい暮らしができるということになれば、みんな一所懸命働くようになるだろうか?確たる答えはどこにもないが、私はたぶんそうなるだろうと考えている。資本主義諸国から流人してくる商品を手に入れたいという意欲にひっぱられて働くようになると思うからだ。だが、私の予想ははずれるかもしれない。

2015年5月23日土曜日

奇妙な部屋

だがそれでは困る。そこで目標会議ではまず、誰がなにを担当しているのかをはっきりさせる。そのうえで、一週間ではなにをどういう方法でやっておくのか、一ヵ月後はどういう目標か、また三ヵ月にはどういう目標かを、私と討論しながら決めてゆくのである。漠然となにかを考えているのではなく、それを具体的にどう進めてゆくか、なにをどういう観点で調べるとか、誰になんの目的で会ったり、どんな方向で交渉してみるかを決める。

もちろんこの会議以外のときでも随時、打合せ、指示などのフィードバックはするのだが、皆のいる前で、かんたんでも、問題をはっきりさせておくことに意味がある。それが大テーブル主義である。それに、若い人たちが発言をする訓練にもなるし、なによりも若い人たちに、自分の仕事として自覚してもらい。精いっぱいの力を引きだす機会になる。若い弾力性ある人びとの力を伸ぼさなくては、新しい仕事はできない。上の方だけでこそこそ話をしていて、ときどき情報のかけらを下に流すのでは、「やる気をだせ」といってもだめである。

そんなことをいわなくても、情報をどんどん流し共有化し、発言をさせ、一緒になって考えていれば、若い人たちは自らやる気をだしてくるものである。指示も適切、確実でタイミングが必要である。実際に衝に当たる人びとにじかに伝えるほうがよい。ただし、大テーブル主義を実行してゆくのに、一人一人全部を相手にするのだから、長の立場はたいへんである。私が局長の頃、最終には局の人員が六〇人を超えていた。これは限界であったろう。

ルーチン化、定型化をせず、総合性を要する仕事には、こうした方法が必要である。企画調整局の内部がばらばらになってはなんにもならない。また若い人に自由に発言してもらうことは、私自身もフレッシュにものを考える刺激になる。もちろん課長、部長の管理職とは、別に管理問題、人事問題、議会問題などの打合せをする。それはそれで、目標会議の方向を実務の上で実現するために、重要な役割を果たすのである。

奇妙な部屋ではこんなふうに、部屋の様子や、ちょっとした備品、仕事の進め方、会議の方法も変わっていた。次第に古めかしい役所流は払拭されてゆく。人間は変わってゆくものである。そのうちに役所でない外部で育った人びとも市に入ってきた。従来から役所で育った人びととは、お互いにいい刺激になり、どちらも成長してくる。これまでのお役所式といわれるのは、法令とか前例とかだけで仕事をする。固くるしい形式論理の上に立っており、新しい課題が現われても法令に書いてないとか、予算がないとかいって避けてしまう。創造的な仕事には前例がないと否定する。こうした自らの思考を停止してしまう状態が一般的であったが、これでは「定型的固定型」である。

2015年4月18日土曜日

従来の抹殺療法的発想が通用しない

常在微生物を、原因病原体として目の敵にするという従来の抹殺療法的発想が通用しない面が出てくる。身体の中にまったく常在菌が存在しない動物を無菌動物という。無菌動物を作るときには妊娠動物に帝王切開を行なって胎児を無菌的に取り出し、飼料や飲用水を含めて全体を無菌的状態にした、外界と隔絶された飼育箱で飼うわけである。その後、無菌動物の生活は繁殖を含めて、代々この無菌的飼育箱の中で行なわれることになる。抹殺療法的な考え方で日和見感染症を治療すると、患者から常在微生物をすべて除去したあと(実際は不可能に近いが)、この無菌動物と同じ環境で生活させなければならなくなる。

これは原理的には不可能ではないだろうが、実現はかなり困難なことである。やはり日和見感染症の治療には、患者の抵抗力を元通りにすることを試みると同時に、常在菌が根絶されなくとも、宿主が日常生活に支障を来たさないようにすることに主眼を置くべきだろう。普通の病原微生物を古典的病原体とよぶとすれば、常在微生物は日和見感染症病原体ということになる。常在菌の病原性の本質を病原微生物と対比して研究する必要があるが、常在微生物は古典的病原体に比べて個性が乏しく、標的とされる弱点が少ない。さらに宿主の抵抗力が低い状態にある日和見感染症の治療は、古典的病原体による感染症に対するものより難しいという。

2015年3月19日木曜日

中国への直接投資額の急上昇

日本でのアメリカの軍用機の組み立てに似ていて、その目的は経済収益をあげるにとどまらず、組み立て生産システムそのものを習得し、一部部品は中国でも生産して、中国の設計・生産技術を高めることにもある。郵小平は天安門動乱以後の中国経済のこのような変化を見て、一九九二年の一月から二月にかけて、経済特区を視察し、この地域の経済発展は中国の将来の一つのパターンとして重要な意味を持つと判断したのであろう。それに応えて、ことにハイテク製品の製造企業には、その製品を全量海外輸出に向けることを条件として、経済特区での優遇措置をさらに拡大する法律が作成された。海外資本の中国への直接投資額は、一九九一年の二八九億ドルから九二年の四三七億ドルヘ、さらに九三年には六七〇億ドルヘと急上昇を遂げたのであった。

趙紫陽も沿海各地を視察した後、「わが国沿海地域の経済は、有利な発展のチャンスを迎えている。先進諸国・地域は、たえず産業構造を調整し、労働集約産業は労賃の低いところへ移りつつある。この移動において、わが国の沿海地域はおおいに吸引力を持っているはずだ」と語ったのである。部小平も趙紫陽も、日本を追ったアジアNIESの経済発展のパターンを、中国沿岸地域に持ち込もうとしたのであるが、彼らはむろん、それが中国経済の発展のパターンの一部に過ぎないことを承知していたであろう。中国と他の東アジア諸国との経済と技術との違いは、中国が、アメリカやロシアやヨーロとハ諸国と宇宙ビジネスで競り合うほどの、高度の技術力を持っている一方、全国農村に展開する郷鎮企業が比較的素朴な技術できわめて大衆的な工業製品を製造し、それが中国の日用品やセメント、石炭などの国内需要を満たしているばかりでなく、輸出貿易においてもきわめて重要な役割をはたしていることである。

2015年2月19日木曜日

日本は高コストか

ドルの下落を媒介として、債務国・アメリカでは経済の好循環が続いた。一方、債権国・日本が90年代に入って経験した不況は、戦後未曾有のものであった。

この不況の原因は、じつは複雑である。金融機関の不良債権問題のみが声高に叫ばれたのは、その解決が急がれたという意味では正論であろうが、そればかりが強調されては不況の全体像を捉え損ねることにもなりかねない。

不良債権問題それ自体が、プラザ合意後の対米協調金利政策の結果であることはこれまでに見てきたとおりだが、ここで強調しなければならないのは、アメリカの円高誘導策が平成不況に及ぼした直接的な影響についてである。

まず、これをモノ作り部門について見てみよう。バブル崩壊のもとでの円高の進行は、アメリカの好況のちょうど裏返しの影響を日本経済に与えたといえる。その中心的経路は、製造業との関連では次のように整理される。

「円高→輸出減・輸入増→鉱工業生産の低下→労働生産性の停滞→単位労働コストの底上げ」さらに実効レートによる円高の程度がドル安のそれより大きかったことが、その影響をはるかに強烈なものとした。先にアメリカのドルについて見た為替の実効レートは、円の場合、95年には90年に対し約4割も上昇している。これは、主要貿易相手国としてアメリカの占める割合がきわめて高く、また、90年以降は、ドル安というより円の独歩高が続いたためであろう。

これらの指標のうち単位労働コストについて見てみよう。単位労働コストは、91~95年の間、自国通貨(円)ベースの上昇率(ベース・アップなどによる通常の上昇率)は6~7%でアメリカとあまり差がないのに、これを実効為替レートではじくと5年間の上昇はきわめて大幅である。

このように単位労働コストが対外的には大幅に上昇したことが、「産業空洞化」を過度に進めるとともに、円高による「輸入価格の低下→デフレ圧力」との間で大きな矛盾となった。輸入価格の低下によるデフレ圧力がある一方で、海外の産業との価格競争力を左右する実効為替レートでの労働コストが上昇した。これでは製造業部門は立ち行かない。労働コストの安定がインフレの芽を摘むという好循環を呼んだアメリカの場合とは対照的である。

2015年1月22日木曜日

地価と競争力

バブル経済の時代、土地についてはどうだったか。大都市圏の地価は、80年代半ばまで、名目GNPをやや上回る程度の上昇たった。ところが85年以降、株式にやや遅れて90年にピークをつけるまで、この趨勢を大きく突き破る急騰を続けた。この問の土地の累積キャピタル・ゲインは、株式のそれを大きく上回る1420兆円、90年のGNPの3.3倍に達する規模となっている。

このように、株式と連動した地価のに」昇も、アメリカから見れば問題があるように思われた。80年代末の時点で、日本の土地は国富総額の約70%を占めるにいたったが、アメリカでは約25%にすぎない。

土地に対する感覚は大陸国家のアメリカと島国の日本では当然異なり、こうした資産構成の差は基本的には国内問題である。ところが、日本の土地資産額(90年末で2400兆円、国民経済計算による推計値)がアメリカ全土の土地資産額の約4倍に相当するということになると、アメリカとしてもこれを見過ごすことはできなかった。

土地の含み益もまた、企業の競争力にがらんでくる。日本では株式と同様、土地についても法人については相続税がなく、個人に対し法人の土地保有が進みやすい。また社歴の古い企業ほど大きな土地の評価益を擁しており、しかもこれが80年代を通じて急激に膨張した。

かつては日米問で企業の競争力をめぐる論争が起きると、目木側は、短期の業績に縛られたアメリカ企業の経営の欠陥をついておればよかった。ところが、80年代末にもなると、アメリカの短期業績主義への批判は、ただちに日本企業が擁する種々の経営上の「クッション」に対する批判となって返ってくるようになった。地価の高騰も求だ、アメリカ企業からみれば、彼らの主張する「平等な競争条件」に反するわけである。

89年には日本異質論者の一人として知られるジェームズ・フアローズが、具体的方法は明らかにしなかったが、「日本封じ込め」を主張していた。冷戦構造の崩壊により、日本は「悪の帝国」ソ連に代わる経済的脅威として認識されるようになった。

この言い古された論評の当否はともかく、ワシントン、それも議会というより、財務省において、日本のバブルを「諸悪の根源」とする判断が形成されていったことを、種々の状況証拠は示しているようである。