2014年12月19日金曜日

大阪の新歌舞伎座

菊田先生は芸術家ですから、私の気持ちをわかっていて下さった。それで、記者会見の席で「何かどうだとは僕も言えないのですが、とにかく駄目になりました。富士子さんごめんなさい」とおっしゃった。私はもう、涙があふれて居たたまれなくなって、お化粧室に駆け込みました。映画会社としては、「契約が切れていても、育てた女優が離れていくのは面白くない。後の示しもつかない」ということだったと思います。それは、私にもわからないわけではありませんでした。参議院法務委員会の議員さんが、「人権侵害で問題にする」とおっしゃって下さったり、日本映画俳優協会の事情聴取も受けました。作家の舟橋聖一先生など、ずいぶん多くの方が「間に立とう」とおっしやって下さいました。

でも、間に立って下さるということは、私かおわびして大映に戻るということです。私は、自分の心に忠実に、苦しくてもフリーの道を選びました。時代は間もなく変わり、日本映画も斜陽になり始めました。つらい思いもしましたが、今では、私を育ててくれた大映に感謝と懐かしさを感じるだけです。何百回も再演重ねて気付くものもある。五社協定の問題で映画界から締め出されかかって、「もう女優をやめよう」と思ったこともありました。そんな時、TBSの石井ふく子プロデューサーが声をかけて下さった。私はテレビのお話も壊れると思ったのですが、ふく子さんは、「テレビはこれからの世界だから、そんなことあるはずない」と言い切って下さった。

それで実現したのが、六三年七月に放送された東芝日曜劇場「明治の女」です。先代の松本幸四郎(白鸚)さんとの共演でした。ふく子さんに聞くと24・5%という大変な視聴率になったそうで、私の家の電話までしばらく鳴りやみませんでした。「皆さんがこんなに励まして下さる。もう一度、女優として頑張ってみよう」と新たな思いがわき上がってきました。その後、たくさんのテレビドラマをやるようになり、フジテレビには「山本富士子アワー」という枠を持たせて頂きました。その中で六四年一月の「にごりえ」は34・2%の視聴率になり、第一回ギャラクシー賞に選ばれました。

舞台に立ったのは六四年四月、大阪の新歌舞伎座でした。松本幸四郎さんとの共演で「明治の女」「千姫御殿」「大石最後の一日」が実現しました。六月には東京宝塚劇場でも「新作国姓爺」と「花と七首」を公演して、五社協定の影も消えていきます。前年の暮れ、新歌舞伎座の松尾国三会長の奥さまのチャリティーパーティーに呼ばれました。会場で「富士子さん、一体どうなっているの。主人もお話を聞きたがっているから、一度いらっしゃい」と声をかけて下さったのです。

ご自宅に伺い、それまでのいきさつをお話ししたら、松尾会長は「わかった」とおっしゃって。「舞台をやりなさい。それも最初から大舞台で。だけど、東京では刺激が強いから、大阪で初舞台を踏んで、それから東京でやりなさい」と道を作って下さった。初舞台から歌舞伎の大看板の方たちとご一緒するのは、大変でした。でも、この壁も乗り越えなくてはいけない。ずいぷんと勉強になりました。映画もテレビ、舞台も、役柄をつかむということでは同じだと思います。ただ舞台は、いざ出てしまうとアップも引きも全部、自分で工夫しなくてはなりません。感性だけでは処理できないものがあり、どうしても場数を踏んで覚えなくてはなりません。