2012年9月26日水曜日

生活文化の再生に向けて


そこで「いくら職人的に働いても働いても、変化が激し過ぎて人間関係が安定せず、正当な評価を確立しうるような温かな人間関係の発展は期待できない。働いても報われない。」という気持をもつ人々が多くなってきているようです。日本では職人気質が強かっただけに、期待が実現しない場合には、大衆社会化による「ショック」は、欧米社会が体験したものよりも一層深刻な性格をもっています。

それは、とくに家族関係に象徴的に表われるようで、「働けるうちは月給を運搬し定年族や窓際族になれば家では粗大ゴミあつかい」になって愕然とすることさえあります。中高年サラリーマンには、職場での仕事への「うちこみ」の度合いが強ければ強いだけ、それだけますます、「仕事が生きがいで家を守る家族のために給与を持って帰るのが男の義務である」という旧い職人意識が根強く残っています。それだけに「仕事でも家庭でも報われない」となれば「生きる意欲を失うようなショック」を受けたとしても無理はありません。

そうなってくると、日本の勤労者も伝統的な地域の職人が情報技術を用いて文化を再生させたのと同様に、新しい情報技術や地域文化の伝統を踏まえて、生活文化の再生に向ったとしても不思議ではありますまい。例えば日本の「釣」人口が急増して各地の釣情報のネットワークが形成され魚類の資源的な価値や環境的な価値が再評価され、さらに釣公園などの開発で家族の生活の一部に定着する傾向さえみられます。

釣に限らず、音楽、演劇、芸能、スポーツなど、文化の時代への勤労者の欲求も急激に高まってきているようです。そこで日本の勤労者の意識に大きな変化がおこりました。「仕事がいきがい」という言葉に象徴されたように最近まで日本の勤労者は?・‐ロッパの人々から「働き中毒」と呼ばれるくらいよく働きました。そしてヨーロッパでは「家族とのコミュニケーション」が勤労者の最大の楽しみであるとされてきたのに対して日本では「会社でのつきあい」が生活の中心となり「会社人間」という言葉さえ生まれました。

しかし、いま、家族とのコミュニケーションを犠牲にしてまで働いても報われない」ということになりますと「もっと文化的で働き易い職場はないか、仕事と家族の生活ははっきり区分して五時以降は家族とのコミュニケーションを大切にしよう」という気持がでてきます。しかも国際的に「日本人は働き過ぎである」という批判を受け労働省や各官庁も労働時間の短縮を主張しはじめますと「余暇に文化とコミュニケーションを充実させよう」という傾向は一層強まるに違いありません。