2012年8月9日木曜日

大蔵省の素早い巻き返し


当時はまだ主計局長だった武藤敏郎事務次官(六六年人省、東大法)には、「大蔵復権」「主計復権」の思いが強かった。武藤は五月の連休明けに首相官邸を訪れ、当時の町村信孝首相補佐官らを通じて、森首相に「財政首脳会議」の原案を持ち込んだ。さらに、主計人脈を総動員して各方面に根回しをして、設立に成功したのである。

財政首脳会議には、政府側から首相、官房長官、蔵相、経済企画庁長官、与党三党からは幹事長、政策責任者が出席する。メンバー構成は、従来あった政府・与党首脳連絡会議とそれほど変わらない。大蔵省としては蔵相を通じて自らの意向を強く打ち出せるし、与党側との政策すり合わせもできるという点で、望ましい場である。大蔵省主計局が同会議の事実上の事務局にもなる。

与党サイドには、「諮問会議のメンバーは政府の閣僚や機関の長、または民間の有識者に限られるが、財政首脳会議には与党からも出られる」との口説き文句が功を奏した。与党にしては、諮問会議-財務省主計局のラインだけで予算を決められては彼らの出番がなくなる。大蔵省の提案は「渡りに船」だった。

もちろん、大蔵省の財政首脳会議設立工作に対しては、関係者や世論の反発も強かった。とりわけ橋本龍太郎内閣当時の政府の行政改革会議事務局長として、二〇〇一年一月からの省庁再編に大きくかかわった水野清元代議士や、経済財政諮問会議が発足すれば、そのメンバーになるといわれる堺屋太一経済企画庁長官らは「財政首脳会議は諮問会議を骨抜きにするものだ」と批判した。

事実は、彼らの懸念のとおりになったのだ。財政首脳会議は七月一七日に第一回会合を開き、同月二八日には二〇〇一年度予算の概算要求基準(シーリング)の「基本的指針」も決めた。八月一日には概算要求基準は正式に決まり、閣議了解もされたが、実質的には、この基本的指針の段階で決まったのである。九月以降も、来年度予算案の重点項目についてさまざまな角度から検討を続けている。

強いて財政首脳会議のメリットを挙げれば、従来は一般国民には見えないところで、大蔵省側と与党の一部実力者や族議員らが。ボス交渉”をしていた過程を、ある程度は透明化できるということくらいだろう。実態として財政首脳会議は、予算編成における首相のリーダーシップ確保というより、大蔵省が予算編成の実権を握り続けるための手段、という各方面の見方がどうやら正しかったようだ。

しかもどうやら、財政首脳会議は二〇〇一年以降も存続しそうな情勢になった。これでは経済財政諮問会議と併存して、[二頭立て]あるいは「屋上屋を架す」事態になりかねない。このため、財政首脳会議に対する批判はまた、強まった。

中川秀直官房長官(二〇〇〇年一〇月二七日辞任)が八月二三日、東京都内の講演会で「大蔵省が予算編成の主導権を残すためにつくったという誤解を招くなら、これをやめて政府と与党の調整会議をまたつくればよい」と発言したのは、こうした批判を考慮してのことだ。だが、またつくり直すなら、財政首脳会議を今年限りで廃止しても、大蔵省にとっては何ら差し支えない。名称や参加メンバーが多少、変わるだけだからである。

実際、武藤大蔵事務次官はその二日後の二五日、東京都内の講演会で「(財政首脳会議が)今のような形でなければならない、ということはない。予算編成の透明性を確保するためのオープンな論議の場を設ければよい」と自信満々に発言したのだ。予算編成の主導権は決して手放さないという決意を表明したわけである。